「自分らしくあれ」というメッセージが本当に「自分」を作るのか?
~ルイ・アルチュセールの「イデオロギーのシャワー」理論で考える~
「若者には自我がない」「自分らしさを持て」と、やたらと説教をしてくるお坊さんや年配の方に出会ったことはありませんか?一見、親身になって「良いこと」を教えてくれているように聞こえますが、実はそれ、ルイ・アルチュセールが批判した「イデオロギーのシャワー」そのものかもしれません。今回は、このアルチュセールの理論をもとにして、このような説教に潜む矛盾を考えてみましょう。
そもそもイデオロギーのシャワーとは?
アルチュセールは、「社会が私たちに浴びせる価値観や考え方」をイデオロギーと呼び、これがシャワーのように日々しみ込んでいくことで、私たちの考え方や行動が形作られていると考えました。たとえば、学校での「良い人間でいなさい」という教育や、メディアで見かける「成功者の生き方」、宗教や伝統が語る「正しい生き方」などが、知らず知らずのうちに私たちに影響を与えています。こうしたメッセージが繰り返し浴びせられることで、私たちは「こうあるべき」と感じるようになるのです。
坊主の「自我がない」という説教はなぜ問題か?
さて、イデオロギーのシャワーという考え方に基づいて、坊主が若者に「自我がない」と言い、「自分を持ちなさい」と説教することの矛盾点を見ていきましょう。
「自我を持て」というけれど、それも社会が求める自我
坊主が言う「自我を持つ」とは、単に「自分の意見を持つ」ことではなく、社会のルールや期待に合った行動をとることを意味しています。つまり、坊主は「若者は自分の考えを持つべき」と言いながら、その「自分の考え」も結局、社会や坊主自身が認めるものに合わせるべきだと暗に伝えています。これって「自我を持て」と言いながら、「私の言う通りにしなさい」と言っているのと同じじゃないでしょうか?説教自体が「自分らしさ」を奪う行為
若者に「自我がない」と決めつけ、「自分らしさを持て」と繰り返すことで、むしろ彼らに自分らしさを持つ余地を奪っています。坊主は若者にとって「こうあるべきだ」という理想像を押し付け、そのシャワーを浴びせ続けているのです。「こうしなさい」と言われ続ければ、自分の意思や考え方はその影響を強く受け、「本当の自分らしさ」はかき消されてしまいます。これがまさに、アルチュセールが言う「イデオロギーの再生産」ではないでしょうか?そもそも「若者は自我がない」という決めつけは何の根拠?
坊主は「若者には自我がない」と一方的に決めつけていますが、それはただの偏見ではないでしょうか?若者の考えや価値観は日々変わり、新しい情報や経験によって発展しています。その多様さを「自我がない」と否定するのは、彼らの持つ可能性や成長を無視しているにすぎません。このように一方的な価値観を押し付けることこそ、イデオロギーによる強制的な「洗脳」に近いのでは?
本当の「自分らしさ」を考えよう
坊主の「自我を持て」「分別をわきまえよ」といった説教は、一見、若者にとってためになるように見えますが、その背景には「社会の期待に沿った理想の人間像」を押し付ける意図があります。このような説教を無意識に受け入れてしまうと、自分が本当に大切にしている価値観を見失うことになりかねません。
アルチュセールの理論をもとにするならば、「本当の自分らしさ」とは、ただ周りの意見や価値観に従うだけでなく、それらを一度疑ってみる姿勢にあるのかもしれません。社会が求める理想の自我ではなく、自分が本当に「どうありたいか」を考えることで、初めて自分らしい生き方が見えてくるのです。
まとめ
坊主の「自我がない」という説教は、若者を自分らしくさせるどころか、むしろ社会の価値観に従わせる働きを持っています。アルチュセールの「イデオロギーのシャワー」という考え方を通して見ると、こうした説教に無意識に従うことが、いかに私たちの「自分らしさ」を奪ってしまうかがわかります。
次回、坊主が「自我を持て」と説教してきたら、「その自我って、誰のためのものですか?」と一度問い返してみてはいかがでしょうか。