実存主義に十返舎一九が反論したい!!
ギロン、スタート!!
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サルトル: 人間は自由に生きる存在です。
しかし、その自由には必然的に「責任」が伴います。私たちは自分の選択に対する責任を逃れることができず、その重荷を背負いながら生きています。だからこそ、人間の存在は「実存」が「本質」に先立つと言えるのです。
私たちはまず「存在」し、その後に自分の本質を定義するのです。
十返舎一九: なるほど、あんたの言うことは重々しいねぇ。だが、私の書いた『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんのように、人生というのは気軽に旅を楽しむもんじゃないのかね?
何事も深刻に考えず、日々の出来事を面白おかしく受け流すのも一つの生き方だと思うんだが、それについてはどう思う?
サルトル: 確かに、日常の中で楽しむことは重要です。しかし、それが単なる「逃避」や「気晴らし」であってはなりません。自由を真に行使するには、自分自身の存在に真剣に向き合う必要があります。
人生を軽やかに過ごすことは素晴らしいかもしれませんが、それは責任を放棄することにはなりません。自由は軽くはありません。
十返舎一九: なるほどねぇ、自由と言うのは楽しいだけじゃなく、責任を負うことでもあると。
確かに、弥次さん喜多さんも旅の中で色々なトラブルに巻き込まれたけれど、それを通して成長した部分もある。
旅は道連れ、世は情けってもんだねぇ。
お互い助け合いながら進んでいくってのも、人間らしさなんじゃないかね。
サルトル: その視点も興味深いですね。
他者との関係性もまた、実存において避けられない要素です。
私は「他者は地獄だ」と言いましたが、それは他者の存在が私たちの自由を制限するという意味でもあります。
しかし、同時に他者との関わりが私たちの実存を豊かにし、新たな意味を与えることもある。
それが、あなたの言う「道連れ」の意義なのかもしれません。
十返舎一九: そうだねぇ、お互いに影響を与えながら進むのが人間だ。
あんたの言う「自由」とやらも、その道中にあるんじゃないかと思うよ。
深く考えるのもいいが、
時には道端の草花を眺めて、気軽に一杯やりながら進むのもまた一興ってもんだねぇ。
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chat GPTを使って議論させてみると、サルトルは実存について、軽わざなものではないと喝破。
それに対して十返舎一九は、彼の東海道中膝栗毛を引き合いに出して、まあとりあえず一杯やるのもいいよ。と軽い感じで反論。
個人的に十返舎一九のほうが、軽くて好きです(笑)
サルトルは話がカタイ(笑)
まあとにかく、あんまり深く考える必要ないってことらしいですね。
旅は道連れ、世は情け。