〜倦怠のうちに死を夢む〜そこに秘める悪意を捉える。
中原中也(1907〜1937)といえば、肌をもった虚無感と、それをリズミカルに文章化した詩人である。そう解釈されることが多い。
彼の詩には、ある種のペシミズムが強く根付いでいる。
以上の詩を見ても、それは解釈の域を出て、彼の心の内部を明瞭に表しているとさえ感じてしまう。
しかし、彼の表現にはある種の"悪意"があったのではないか?
そうとも感じる。
それは《自分に向けられた》-実存-への悪意であるとともに、《自分に見られている》-世界-に対する悪意なのである。
これらの自己愛とも言える雑文たちは、
自分が承認されていない。
世界が自分を見てくれていない。
そのことに対する悪意の裏返しではなかろうか?
世界を見つつ、見られているという感覚。
主観的視座の中に潜む客観的視座への"配慮"と"嫌悪"。
それらが混ざり合い、バタイユ的に溢れ出てみると、彼は詩作のエネルギーに満たされる。
濁流の如く文章化してみると、少しでも身に取り憑く倦怠から目をそらせるのだろうか。
それはわからない。
加えて、実存と世界に問題を抱えていたのは彼だけではない。
彼の時代を生きた人もそうだっただろうし、同時代的にはあなたも同じである。
つまり、生まれた人間は須く、彼が、あるいは同時代の実存主義者たちが定義した問題にぶち当たるのである。
重要なのは、それをどう解決するか。
思想、宗教、社会、経済、身体など。
その解決を図って、人間は自分たちのホームベースを絶えず生産してきた。
どこに根付くかは、たぶん人による。
そして、根付いた場所で、死ぬまで生産に呪われる。
実存的には、唯一の真理はこれのみである。
↓アウトプット用にどぞ!
中原中也の詩における肌をもった虚無感というテーマを掘り下げ、社会的な孤立や他者との関係性に焦点を当てた記事を書く。
中原中也の詩における"悪意"という要素を探求し、彼の表現に込められた意図やメッセージについて考察する。
中原中也の詩における主観的視座と客観的視座の関係性を論じ、それが彼の作品に与える影響や魅力について説明する。
中原中也の詩のエネルギーと倦怠感という対立する要素を取り上げ、彼の作品がどのように読者の感情や心に訴えかけるのかを解説する。
中原中也の詩における詩人自身の内面と外界との関係性を探求し、彼が詩を通じて自己表現や自己解釈を行っている過程を分析する。