幸せに慣れるって怖い

自分は今幸せであると断言できる。

毎日が楽しく、これからの人生も楽しみだ。

それはパートナーのおかげかもしれないし、友達のおかげかもしれない。はたまた趣味、美味しいご飯、今後の予定のおかげかもしれない。

おそらくこれら全てがいい感じに合わさって今の幸せを作り出しているのだろう。

自分は基本楽観的な性格なので、大抵のことは「まあなんとかなるだろう 」で乗り越えがちである。

だが、そんな自分でも悲観的になってしまうことが一つある。

それが「幸せに慣れる」ということである。

幸せに慣れることは別に悪いことではないと思う。

むしろ慣れないと毎日がイレギュラーになってしまい、疲れてしまう。

自分も多少は慣れてきており、常にこんなことを考えているわけではない。

ただ不意にその幸せに慣れている状況が不安になり、それが失われたときの自分の感情を考えてしまうことが多々ある。

つい最近実家の犬(ミル)が亡くなった。享年18歳であったため、物心ついた時からずっと一緒にいた。

家に帰れば、しっぽを全力で振りながら飛びかかってくる。おやつを持つと目を輝かせ言わなくてもおすわりをし、お手をしてくる。散歩に行くとこちらのことなんかお構いなしに全力疾走する。

それが当たり前で、いなくなってからのことなど考えたこともなかった。

祖母から突然ミルさんの体調が悪いと連絡が来たとき、「病院に行けばまた元気になるだろう」と思っていた。

だが診察の結果は末期の膵臓癌であり、もう体力的に手術するのは不可能だと言われた。

そこから体調はどんどん悪くなり、一週間ほどで自力で立ち上がることができなくなった。

これが最後になると思い、急いで実家に帰ったが、そこにあったのは自分の知らないミルさんの姿だった。

数ヶ月前まで元気に散歩していたとは信じられないくらい弱っており、正直現実とは思えなかった。

自分が帰った次の日の朝に亡くなったと連絡が入った。

それを聞いた瞬間は思っていたよりもすんなり受け入れることができ、「まあそうだよな」くらいにしか感じなかった。

ただその後、祖父と電話で火葬の話をしているときにもうミルさんには会えないという事実に涙が止まらなくなってしまった。

今まで当たり前だった存在が突然消失するという経験は初めてで、正直今でも受け入れられてはいない。

たまに実はまだ生きているんじゃないかという期待をしてしまう。

でも実家に帰れば現実を受け入れざるを得ない。

だから実家に帰るのが少し怖くなってしまった。

幸せは突然失われるという事実を目の当たりにして、幸せに慣れていることにさらに不安を感じるようになった。

また、ここ最近は暗いニュースが多く、それらもこの不安を増長させる。

ただこんなこと考えても何も始まらないため、日頃から悔いのない言動をするように心がけている。

感謝、好意、謝罪、賞賛などを周りの人にその時に伝えるように意識している。

仮にその存在が突然なくなるもしくは、自分がいなくなったときに後悔のないように全てを伝えるという理屈である。

いつから意識するようになったかは覚えてないが、これを意識し始めてから多少なり幸せに慣れることに対する不安は薄れているように思える。

幸せに慣れることは怖いが、そこにばかり目がいってしまい、幸せを感じられなくなってしまったら本末転倒である。

幸せが失われることは必ず訪れるわけで、その時に考えればいいことなのだから、今は幸せなことに感謝し、その状況を目一杯味わい尽くすことがその不安を払拭する方法なのだろう。

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