浄土真宗アメリカ訪問備忘録

先日、大学院の研究プロジェクトでアメリカのカリフォルニアバークレーに行ってきました。

海外における浄土真宗にふれて、色々と勉強になったので残しておきたいと思います。

どんなワークショップだったか

今回参加したのは、「歎異鈔翻訳ワークショップ」というプロジェクトで、大谷大学、龍谷大学、UCバークレーの3大学連合で、江戸期の歎異鈔の講義録を翻訳するというもの。
歎異鈔は親鸞の言葉を弟子の唯円がまとめた随筆のような書物。歎異という言葉には、親鸞の教えを誤って解釈している人が多いことを嘆いて著したという意味が込められています。
歎異鈔は非常にわかりやすい言葉選びと簡潔さが特徴で、日本でも多く読まれているし、アメリカでも翻訳書が10以上あります。ただし、アメリカの翻訳はどれも似通っていて、解釈が一元的であることが課題とのこと。
日本ではいろいろな先生がそれぞれの解釈を本に書いているので、それらを比較しながら読んでいくことができるけど、アメリカではそれができません。
そういうわけで、江戸期のいくつかの講義録を翻訳し、多様な解釈を補註の形で含めた本を出版しようというのが今回のプロジェクトの目的です。

毎年2回、かれこれ5年以上やっていて、かなり息の長いプロジェクトです。大学間の交流的な意味合いもあり、3つの大学で開催場所がローテーションされます。
参加にあたって、学生はかなりの援助費が出るので、今回もアメリカ7日間に3万円で滞在することができました(ここが一番重要)。
おトクな機会に目がない自分としては、英語もそんなにできないし5日間仕事を休むのはかなりハードルが高かったですが、周りの後押しもあって参加することにしました。
結果としては、参加できて本当に良かったなと思っています。

翻訳のおもしろさと難しさ

そもそも何かを翻訳するという経験もないのに、ましてや浄土真宗の本を翻訳するなどできるはずもなく、貢献というよりはほとんど勉強させてもらっただけですが、興味深い議論がたくさんありました。

まず厳密性の問題。江戸期の講義録は、言い回しが複雑で、そのまま英語にするとかなり読みにくい文章になることがあります。あとは、特殊な慣用表現や日本語で読んでも意味が取れない部分もあったりします。そうした箇所をどう翻訳するか。
ざっくり意訳しちゃった方が絶対わかりやすいけど、厳密な研究資料としては使いにくくなってしまう。大谷の先生は、できるだけ忠実にそのまま翻訳することを心がけており、細かいところにすごく時間をかけたりとか、そのせめぎ合いが面白かったです。

浄土真宗における「信」の翻訳ついて

次に、真宗用語をどう翻訳するか問題。これが今回一番の盛り上がりポイントでした。
議論に出たのは、「信」と「悪」。どちらも浄土真宗の教義において中心的な言葉です。

まず「信」について。これまでの翻訳者は「Faith」と訳してきました。これはキリスト教における信で使われる単語で、「信」の意味はあるので字面上は良いのですが、浄土真宗の「信」の意味合いを考慮すると、完璧な翻訳とは言えません。
このテーマについて、英語ネイティブのとある研究者の方が論文を書いたとのことで、その話が興味深かったです。
まず、この「Faith」には「主体的・能動的に信じる」というニュアンスがあるそう。キリスト教の信仰のイメージです。
一方で、浄土真宗の「信」は、自力(自分の能力・自分の努力・自分の善の行い)が打ち破られて、仏から賜るもの(自分の能力・自分の努力・自分の善の行いを手放して、ただ信心をいただく)、というニュアンスがあります。
なので、「Faith」と訳してしまうと結構な違和感があるとのこと。「Faith」は、何か絶対的な正しいことをそのまま信じるという感じで、他に余白がないように感じる。
そこで、その研究者の方は「信」を「Confidence」と訳するのがいいのではないかと話しておられました。こちらが信じるのではなく、仏からReceiveしてConfidenceするのが、真宗の信なのでは?と。

確かに納得だし、とても面白い議論でした。
真宗の言葉には、一つの言葉に様々なニュアンスが含まれています。それを別の言語のひとつ単語を選び取って置き換えていくというのは、非常に辛く苦しい作業だなと思いました。
ただでさえ難しい浄土真宗の思想ですから、ちょっとニュアンスが違うだけで容易にズレた解釈になってしまいます。小並感ですが、なんて難しい作業なんだ!と思いました。

浄土真宗における「悪」の翻訳ついて

もうひとつ。「悪」について。全部のセッションが終わって、最後のラップアップの時間。バークレーの教授が5分だけください!と言って問題提起を話し始めたところから、議論が白熱しました。

真宗における「悪」は、伝統的に「Evil」と訳されてきました。ただ、英語の「Evil」は人を殺したり騙したり、最悪の罪を犯した人を想起させるといいます。なので、アメリカの学生は、「浄土真宗がEvilな人を救いの目当てとする」というと、「自分には関係のない話だ」と思ってしまうそうです。

教授はそれが問題だと感じており、真宗の「悪」を、訳さないで「Aku」としておくのが良いのではないかと提案されていました。
確かに、どの言葉でも置き換えることが難しいし、キリスト教における悪とも全然違うので、いっそそのままにしちゃって新しい概念として広めていくのは、伝道の観点でも際立って良いのではないかなと思いました。

それに対してアメリカで開教師としてお寺の住職をしている方は、それでも「Evil」がいいと主張されていました。理由は、

  • 最も重い悪である、その重力感を伝えるにはEvilが適している

  • 「なんでEvil?」という違和感が、教えを聞く入り口になる

  • どうせ説明しなきゃいけないんだから、できるだけ英語に置き換えた方が良い

という主張でした。
それ以外にも意見を持っている先生がたくさんいて、大盛り上がり。最終的には、別のディスカッションの場を設けて、一人の先生が小論文としてまとめるということに笑 大変エキサイティングな議論でした。

どの主張にも的を得ている部分があり、これは答えの出ない問題だなあと思いました。
いずれにしても、言語が違う人に、浄土真宗の教えを伝えるということは、めちゃくちゃ難しいことだなと思いました。日本語でさえ難しいのにすごい!

アメリカにおける浄土真宗

アメリカにおける浄土真宗がどのように受け止められているか。
これは個人的に現地に行ったらぜひ聞いてみたいテーマでした。さまざまな立場で教団に関わっている方がいたので、色々と聞いてみました。

アメリカのお寺の運営

まず、アメリカのお寺の運営事情から。僕ら学生が宿泊したのは、Buddhist Church of Americaという場所。研修施設兼お寺のような場所でした。そこではメンバーさんと呼ばれる方がいて、食事の準備や掃除等をしてくださいます。
そのおもてなし精神がハンパなくて、ご飯も毎食バイキング形式でたくさん種類があるし、間食におにぎりを出してくれたり、最終日には車を出してくれて観光案内までしてくださいました。

メンバーというのは、いわゆる信者さんのことで、日本語では門徒さんといいますが、そうした方々のボランティアのコミットがすごくあります。

驚いたのは、ファンドレイジングまでメンバーさんがやっているとのこと。定期的にお弁当を販売する日があって、その売り上げでお寺を維持しているそうです。
ちなみにそこのお寺のお弁当は、テリヤキチキンが名物で、たくさんの人がわざわざ買いにくるそう。日本にはあまりない仕組みだなと思いました。

法要や供養頼りじゃない、メンバーさんに支えられる寺院運営の形はとても良いなと思いました。

アメリカにおける浄土真宗はどう受け止められているのか

バークレーの先生が、最近は仏教の授業はいつも満員の教室で行われていると話してくれました。その数なんと200人。仏教の人気がものすごく上がっているとのこと。確かに書店に行くと、新書コーナーに仏教の本が並んでいます。

海外での禅やマインドフルネスの流行は日本でも聞こえるところですが、開教師の方が言うには、その要因には「キリスト教離れの反動」という側面もあるそう。

神秘的・超自然的な要素が多い宗教は、どうしても現代の多くの人たちの価値観とは合わなくなっていきます。
アメリカでは、そういうものへの拒否反応を示す人が増えてきているとのことで、その方はアレルギーと表現していました。そういう人が、仏教に流れてきていると。
釈迦の仏教は、実は超ロジカルな論理体系なので、物事のメカニズムを論理的に理解しようとする現代人の価値観にあっています。そういうわけで、仏教への注目が高まっているのかなあと思いました。

では浄土真宗はどうかというと、なかなか難しい現状があるようです。
キリスト教と浄土真宗は似ている側面があり、それは日本の研究者の間でも指摘されています。そのため、
「キリスト教が嫌で仏教に来たのに、またキリスト教みたいなこと言われるのかよ!」
といわれることも多いとのことでした。
説明すれば違いはわかってもらえるけど、反射的にそのような印象になった人に戻ってきてもらうのはなかなか難しそうです。

ちなみにサニーデーサービスという日曜日のお参り会には毎週50名ほど来るそうですが、半分くらいは日系人とのことでした。

出会った人

いろんな良い出会いがありました。
多様な立場から真宗に関わっている人がいて面白かったです。

ハリウッドで働く女性

フリーランスでハリウッド映画の絵コンテを描く仕事をしている方がワークショップに参加されていました。日本でも上映されているアメコミ映画にも関わっているすごい方。
その方がなぜ真宗を勉強しているかというと、長年殺しや残虐なシーンの絵コンテを描いてきたけれど、あるときふと、自分は映画を通してどれほどの悪い業を世の中に広めてきたのだろうか…と思い至ったんだとか。
そこで、少しでも良い業を作っていきたいと考えて、浄土真宗の僧侶になることを決意したそう。
勉強することを心から喜んでいるように感じられて、良いエネルギーをもらったように感じました。

バークレーの博士課程で学ばれている方

京都の大学院から、アメリカにいって、バークレーで研究している方にもお会いできました。
日本で研究するのとそちらで研究することの違いを聞いた中で一番印象に残っているのは、バークレーは既存の通説を覆すようなテーマ設定の研究が推奨されるということ。一発逆転的な。文化が違って面白いなと思いました。日本にはあまりなさそうでいいなと思いました。
あとは、奨学金と研究費が半端なかった笑

二大推し先生との偶然の出会い

大学院でいろんな本や論文を読んでいると、「この先生はいつも興味惹かれるテーマの論文書いてるなあ」とか、「この先生の主張好きだなあ」というように、だんだんと好みが出てきます。

まだ生きている先生の中で、特に好きな先生が二人います。
初期仏教の研究をされている佐々木閑先生と、大谷大学の元学長で、野々村直太郎の研究や真宗とボランティアなど、賛否あってなかなか手を出せないテーマの研究を精力的にされている木越康先生です。

なんとなんと本当に偶然ですが、現地でその二人の先生にお会いすることができました。
佐々木先生は別のカンファレンスでバークレーにきていて、木越先生はサバティカルでバークレーに1年間研究留学をしに来られていたとのこと。
佐々木先生はマジでただのファンなので、食事しているところに押しかけて写真を撮ってもらいました笑 推し活ってこういう感じかあ、と思いました。
木越先生とはじっくり話す時間をいただけて、論文についての話など色々聞かせてもらって、最終日には野々村直太郎の論文の英訳の製本をプレゼントしてくれました。

どちらの先生も、日本でまた会いましょうといってくださり、感激でした。最近こういうご縁をうまく続けられてないので、ギフトだと思って大事にしたいと思います。

まとめ

こういうの、一度書き始めると果てしなく書いてしまうのどうにかしたい。。
色々楽しい経験をすることができました。

自分の備忘録のつもりで書きましたが、海外における浄土真宗の紹介記事のような感じになりました。

興味のある方は、一度現地に行ってみることをオススメします!


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