欲望の翼: 脚のない鳥に恋をした

ウォン・カーウァイの欲望の翼が好きだ。

初めて観た2018年の秋から、幸運な事に年に1回は劇場で観る機会に恵まれている。

最初見た時、何が好きか言葉にできぬまま何かすごいものを見たという強い感覚に襲われて、上京してきて初めて映画のパンフレットを買った。

2度目観た時、既にレスリー・チャンのファンになっていた私は、ヨディの人生に彼自身を重ねて焦がれる胸をくしゃくしゃにした。

先々週は、3度目だった。香港国家安全法が施行されて、最初の土曜日。ルーツを求めて飛び続ける脚のない鳥の姿は、彼の生まれた香港の今に似ていた。

阿飛。あてどなく、ふらふらと、唯一たしかな自分自身を探し続けて、飛び続ける脚の無い鳥。降り立つ術をもたない鳥。

ヨディの養母は言う、「いいわ、どこへでも飛んで行ったらいい。これからは誰も頼れないよ!」

警官は言う「自分が脚の無い鳥のつもりか?飛べよ、どこへでも飛んでいっちまえ」

いいさ、飛んでいくよ。機会があればな。

そう答えるヨディの、あの迷子の子供の瞳。童顔だから、下手したら泣き出しそうに見えて、駆け寄って抱きしめてあげたくなる。
無理しないでいいの、飛び立たなくてもいい。
そのまま、強がりのままでいいよと。

ひとつの香港、ひとつの制度と叫ぶ若者がいる。
もはや養母なしでは生きられないと、現実を選ぶ人がいる。

母親の世話を焼いているつもりで、縛り付けられてきたと文句を言う。その実、縛られていないと生きられない自分に、いつのまにか変わっていたとしたら?その失望たるや。

ヨディはそれでも飛んでいった。それは意地にも見えた。けれど確かに心からの願いだった。


そして降り立ったはずの土地で、生母は顔も見せず、行き摺りの女に身分証を奪われる。これが、彼が望んだ飛ぶ鳥の姿なのだろうか。

身分がない。行き先も分からない。

自らが「何者か」知ることも許されぬまま、お前はここにいるのよ。と、その束縛に耐えられず、飛び立って、飛び立って、飛び立ったつもりで、飛び立つことを夢見ていた。

そうして、往くあてのない電車に揺られ、朝日を待たずに眠りにつく。
あの、迷子の子供の瞳を見開いて、最後の瞬間をみつめたままで。


夢の中で、彼は誰に出会っただろうか。

最初に愛した人だろうか。



香港は脚の無い鳥に似て、

飛び立つ時を夢見ている。

自分が何者なのか

今まさに解き明かそうと

何処から来て何処へ行くのか

答えを出すため飛び立とうと。


ヨディを追う女がいる。激しい恋に落ちた女。自分が養うからいいのだと、彼のいるところ、どこまでも追う女。

彼女ならきっと言うだろう、ただ一緒に居たいのだと、あなたが何者でも構わないと。

ヨディを忘れようとする女がいる。熱い恋に溺れた女。穏やかな未来が叶わないと悟り、彼と出会う前の日常を、また繰り返そうとする女。

彼女は果たして、彼と始まったあの1分間を、忘れることができただろうか。


私はどちらだろうか。
駄目になっても愛すると、追いかけることができるだろうか、それとも。
愛した人が飛び立つのを見届けて、忘れようともがくだろうか。

恋した人を、場所を、果たして忘れることができるだろうか。


私は香港に行きたくて、

恋した人に恋したと告げたくて

眠たい目を細めては

また訪れる日を夢想する。

ヨディ、レスリー、あの日出会った人たち。

叶わないとどこかで分かっていても、

それでも夢で会いたいと願う。

あの日を超えて、永遠に飛び続ける、あなたのあの背中に。




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