【ヒプマイ考察】波羅夷空却がドラパ『Fools Gold』で至った仏教者としての境地

この度公開されたドラパに関するディスカッションをXで続けていたところ、心理学の発達理論的な観点から波羅夷空却が今回のドラパで迎えた成長を語るポストとマシュマロをそれぞれの方からいただきました。

参考①https://x.com/kyorino7/status/1857593961466179776?s=46&t=FyPPMAioLeO87dll8kBiUg

参考②https://x.com/namu_amabutsu/status/1859585482939564434?s=46&t=FyPPMAioLeO87dll8kBiUg

本記事は参考②のマシュマロに対する返信文として、波羅夷空却がドラパ『Fools Gold』で至った仏教者としての境地の考察についての投稿となります。
このような考察をシェアしてくださったきょり様とマロ主様に心からの感謝と敬意、親愛を込めて、本記事を描かせていただきます!
文体が返信形式となっておりますこと、ご理解のほどよろしくお願いいたします🤲🏻


最高マシュマロの御礼


かねてより尼は「波羅夷空却というキャラクターの(尼が思う)奥深さや魅力を仏教学の観点から語り、伝える」ことを目的にXのアカウントを続けてまいりましたが、この度、その念願叶って仏教学以外の観点から波羅夷空却の物語を分析してくださった考察が尼にとって非常に新鮮でとても面白く、同時に心理学と仏教の類似性や、それぞれの立場から見たときの今回のドラパに対する見解(彼が今回の物語で詰まるところ何を得たのかについての解)の差分を理解することができ、大変興味深いポストとマシュマロとご縁をいただけたと感じました🥹(一言で、サイコー‼️でした‼️🥹🥹🥹)

仏教教理から見る、今回の物語が彼に与えた意味と帰着点。
心理学の発達理論から見る、今回の物語が彼に与えた意味と帰着点。

それぞれどちらもが異なる形でありながら、波羅夷空却の今回の成長物語の中にひとところに同居しており、つまりは「仏教者としてのステップアップ」と「1人の人間としての成熟」が一堂にしてこのドラパで描かれていたと思います。
今回、送付いただいたマシュマロには、彼が得た「1人の人間としての成熟」の観点がふんだんに詰まっており、素人風情が読みましてもなんら不透明な部分もなく、分かりやすい素晴らしい考察でした。改めまして本当にありがとうございました。

ここではそのマシュマロに対するご返信として、尼の見た仏教者として波羅夷空却が今回のドラパで到達した境地についても是非語らせてください!
波羅夷空却が人間としての発達過程における重大なターニングポイントを迎えたことと、仏教者として一つの真理に辿り着くという転換点を一同に迎えた今回のドラパ……改めて最高でしたね、、、!!!!それぞれの観点から、その差分を楽しんでいただけましたら幸いです!


心理学と仏教教理の類似点・差異


尼の師が心理学の学位を経て仏教学者となった方だったこともあり、心理学と仏教には類似する部分が多々あるという事はかねてより存じていました。
例えば、エリクソンの述べる「自己形成にはその都度、他者の承認が必要である」という点について。
あくまで自己形成にとどめた叙述であると理解はしていますが、これは仏教における「あらゆる物や事はすべて、それ自体が持つ内的な因と外部との関わりによって生じる外的な縁によって引き起こされる」という因縁の思想との類似性を感じます。
私たちが車を車として扱うから車が形と名を保っていられるように、波羅夷空却を「波羅夷空却」たらしめるのは、周囲との関わりの中で得られた縁と、その縁が蓄積されたことにより彼本人の中に薫習された因のためである。そしてその因縁の蓄積こそが、自己と私たちが捉えるものの正体であると仏教では考えられています。

このように外界とのかかわりにより自己が形作られていくという点では似通った部分がありますが、両者の大きな違いもまた「自己」に対する考え方の中にあり、さらには人間が迎えるべき到達点についての見解に対しても異なる見解を持っています。

仏教では自己は形成されていくべきものではなく、それ自体が上述の通り実体の伴わないものであり、「唯一無二の本来の自己というものは実在しない」と考えられています。そして、(特に大乗仏教では)自身の菩提心(さとりを求める心)に従い行動し、この世の生きとし生けるものすべてをさとりの道に導くことを最終的なゴールとしており、この他を利する行為そのものが、波羅夷空却を含む大乗仏教の修行僧が歩むべき道であるということが仏教の基本的な考え方です。

また、もう一点今回の事象を考える際に重要となる、心理学と仏教の大きな違いがあります。
それは波羅夷空却が今回迎えた「葛藤」をどのように捉えるかという点です。
心理学では「葛藤とは、同程度の強さの2つの欲求が存在する際に、その両方を選択することはできないために悩み続け、どちらを取るか決めかねている状態のこと」とマロ主様にご説明いただきましたが、
仏教では「葛藤とは、煩悩が葛や藤のツタのように心を雁字搦めにして解けないようにしている状態」を指します。(意訳ですが)

この違いは非常に大きく、葛藤状態に陥った人間が迎えるべき仏教においてのゴールとは、苦しみの正体を知り苦しみそのものから解き放たれることであり、最終的な到達点はやはりその先にあるさとりに衆生を導くだけでなく自分自身もまた近づいていくことなのです。 

『Fools Gold』で波羅夷空却が得たもの


ついては、マロ主様が心理学を用いて紐解いてくださった以下の事象を、仏教の上述のような思想に基づきこのように解釈することができます。

【心理学から見た今回の事象】
①波羅夷空却が「過去の自分(争いをし続けてきた自己)」と「僧侶らしい僧侶として寺を守る自分」のどちらを取るべきか2つの欲望の間で葛藤した。
②一時的に後者を選ぶものの、十四と獄の介入・承認により最後は過去と現在の自己の連続性を保持した自己を見つけ直すことができた。
③今後も、絶えず彼の自己は人生の中で形成され続けられる。
※解釈に異なる部分がありましたら申し訳ございません

【仏教から見た今回の事象】
① 波羅夷空却は争いの螺旋に居続けることで生じる因縁に苦を感じ、煩悩に苛まれた葛藤状態に陥った。
②解決の手段として僧侶らしく心身を正し、寺を守るという生き方(修行道)を選択した。しかし十四と獄という共に修行する外的存在との対話(縁)により、どちらかの道を選ぶのではなく、彼の菩提心が指し示す全ての行動が衆生救済に繋がる道であると気づき争いの螺旋を降りないことを選択した。
③ 彼は修行者として歩むべき自身の在り方を確信し、不退転となった(もう二度と屈して退くことのない修行位に達した※厳密には「不退転の信念を得た となります))

最後に


何度も書いてしまいますが、このドラパは「仏教者としてのステップアップ」と「1人の人間としての成熟」が同時に描かれた本当に素晴らしい作品だったと思います。
また、人間の発達過程の観点から今回の事象を紐解いてくださったマロ主様の考察について、特に心に残ったのが以下の言葉です。

空却くんはまだまだ道を歩き始めた身。人生のどこかで完結することなく、たえず形成し続ける「自己」は、未来への可能性を多々残しています。

マシュマロ主様の言葉

「唯一の者である私は、 現実の、逃げ道のない、待ったなしの、一回限りの生に、一瞬たりとも参加しないで済ますことはできない」

ミハイル・バフチン

波羅夷空却を尼のように1人の修行者としてだけではなく、1人の人間として捉え客観的に観察する方からのこの言葉はとても力強く、響くものがありました。ひとえに、人生とはなんと美しいのであろうかと、感動するものがありました。
そして、この美しい人の人生、生命の輝きを尊く大切に思い、その中に宇宙的・あるいは真理に通ずるような永遠の瞬間を見出すことが、特に日本大乗仏教思想の特徴でもあります。
波羅夷空却は確かに自分の人生を苦しみもがき悩みながらも生きて、彼自身の成長を通じて世の人を知り、世間を観察、理解して、彼らと共により良い在り方を目指すための衆生済度の仏道を歩んでいくのです。

どちらの観点から見た成長も今この世を生きる波羅夷空却が獲得したかけがえのない気づきと経験でした。改めて、心理学的な観点からこのドラパの奥深さをお伝えくださるマシュマロをお送りいただき、本当にありがとうございました!多くの気づきと萌え与えてくださりましたこと、心より感謝申し上げます🥹🫶

尼より

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