覚書・椎乃味醂における哲学のサブテキスト
1. 前置き
こんにちは、なもみ(@namomidw)と申します。
先月noteに初投稿した「熱異常」の考察がたいへん好評を博しており嬉しいかぎりです。しかし、Googleで「熱異常 考察」と検索してもなぜか表示されません。クローラに避けられています。悲しいです。
Iyowa.Archiveというサイトも運営しています。みんな使ってね。
普段はいよわ以外について話すと死ぬ呪いにかけられていますが、今回はnoteから「今月も書けば連続投稿期間を伸ばせるよ!」と唆されたため特例として解呪されました。書かないくらいなら手元のネタで書いてもいいよということらしいです。読者の皆様もそう思ってくださることを願います。
さて、椎乃味醂の楽曲には(学問としての)“哲学(philosophy)”の背景が含まれていることは周知の通りだと思います。特定の哲学者の言説や用語を借用した歌詞が椎乃味醂の楽曲のひとつの明確な特徴であり、その解釈を大いに助ける要素であることは明白でしょう。私は決して熱心なリスナーではありませんが、哲学を主とする人文書を読むのが趣味であるため、聴いていると歌詞からそのサブテキストを察することがよくあります。
しかし、実際検索してみるとその哲学の要素について語っている言及や文章は数えるほどしかありませんでした。これは意外なことです。もちろん誰もいないわけではなく、たとえばきぃ氏はいくつかの楽曲について詳細な解説を載せてくださっています。
しかし、それでもサブテキストのほとんどをカバーするのは難しく、いずれ誰かが椎乃味醂の楽曲を考察・読解をする際に資料として活用できるよう、私が気づいた哲学のサブテキストの覚書をここに記しておこうと思います。
といっても私は熱心なリスナーではないので、全曲を聴いているわけでもなければインタビュー記事を読んでいるわけでもありません。あくまで数曲の歌詞から自明に察せるサブテキストを覚書という形で記載しているだけです。
また、以下の覚書は私の気づきや読者からの指摘、出典の補強などにより予告なく変更・追加・削除されることがあります。ご了承ください。
2. 覚書・椎乃味醂における哲学のサブテキスト
じゃあ君の思想が死ねばいい
推測されるテーマ:不誠実さや無理解など諸要素に端を発する先鋭的な思想に対する批判と激情
哲学のジャンル:言語相対論と生成文法との対立
サピア=ウォーフの仮説(Sapir–Whorf hypothesis)は言語相対論(linguistic relativity)とも呼ばれ、とても平易に言えば「私の国語(母語)が違えば私の思考・認識・世界観は異なっていただろう」とする言語学上の理論。
「蠹毒の文法」の意図がいささか掴みにくいが、楽曲全体の主張を鑑みて「他者を傷つける言説を可能にする言語の構造」と換言するなら、このフレーズは「言語相対論を支持することで、他者を傷つける言説を可能にする言語の構造は、私がこの国語(母語)に属しているからだとローカライズできる」と言い換えられる。
ここでの「チョムスキーの理説」とは、言語相対論と対比されている点からも生成文法(generative grammar)であり、特にその中心的概念である普遍文法(universal grammer)についてのことであろう。
普遍文法とは、読んで字の如く「すべての(健常な)ヒト(Homo sapiens)が生まれながら有している普遍的な言語機能」のことである。これは言語相対論と必ずしも両立しえないわけではないが、概ね対立する。
以上を踏まえて、フレーズ全体は「あるいは生成文法を支持することで、他者を傷つける言説を可能にする言語の構造を、人の性というユニバーサルなレベルまで還元できる」という意味と解釈できるだろう。
ヘテロドキシー
タイトル:ヘテロドキシー(heterodoxy)は宗教における“異教”、キリスト教では“異端”であるため肯定的なニュアンスはないが、価値の均一化を批判する文脈ではむしろ肯定的に扱われている
推測されるテーマ:資本主義批判を中心とする価値の均一化への批判と、その状況下において創作の果たす意味の表明
哲学のジャンル:『資本論』と能動的ニヒリズム
ここはカール・マルクス『資本論(Das Kapital)』第一巻第三篇第五章第一節に書かれた文章の換言である。
と言ってもマルクスがここで論じているのは資本主義以前から見られる労働過程の一般的性格であって、資本主義特有の性質についてではない。直後の
という歌詞は、『資本論』における話の流れと同様に、労働過程の一般的性格を一度論じてから、資本家が労働力を消費するに際した労働過程の示す特有の性格を示していると言える。
ニーチェにおける永劫回帰(ewige wiederkunft)は、『ツァラトゥストラはかく語りき(Also sprach Zarathustra)』において初めて提唱され、その後も繰り返し著書に出てくる概念である。体系的な概念ではないため意味は掴みにくいが、概略を述べると「すべての経験は一回性ではなく永劫に回帰され、そこで能動的ニヒリズムの態度を失わない者こそ超人である」とするもの。
このフレーズをものすごく雑に換言するなら、「無限ループの中でも底なしの虚無感に陥らず、さらに高い到達点を求めて芸術活動を駆動する強い意志」を表現しているものだと考えられる。創作論としてニーチェを参照していることからハイデガーにおける美学の文脈も持ち、資本主義批判と合わせるなら無限とも思えるほど再生産されるシミュラークルとしての芸術を超越する意志を表明しているとも言え、ボードリヤールの文脈も汲み取れる。
死んでしまったんだ
推測されるテーマ:価値の均一化に対する批判を継いだ上での、陰謀論の跋扈やそれに至る人々の態度に対する批判
哲学のジャンル:心の哲学
『コウモリであるとはどのようなことか?(What Is It Like to Be a Bat?)』はトマス・ネーゲルによる非常に有名な問題提起。
我々はしばしば、犬や猫が感情的な動きをするシーンに、ヒトがその代弁者として声を当てているコンテンツを目にする。もちろん、ほとんどの人は犬や猫がヒトが当てたセリフ通りのことを考えているとは思っていないが、この行為は暗黙的に犬や猫がヒトと同様の世界観を有しているという前提に立っている。
では、ヒトとはまったく異なるコウモリについてはどうか。盲目の視界、翼の動き、超音波の反響定位で空間を把握する“感触”をヒトが実況していたら違和感を覚えるだろう。ヒトはコウモリではなく、コウモリはヒトではない。その脳のサイズや感覚器の違いなどによってコウモリはコウモリの主観的な意識体験をしている。
このフレーズはそのまま、「我々が我々とはまったく異なる存在としての主観的な意識体験ができるならどんなによかったか」と言っている。
クオリアの私秘性(privacy of qualia)は、端的に言えば先程の「コウモリの感情」と同じ「他者には絶対に体験することができない<私>に固有の主観的な意識体験」のことである。とある人物の前頭葉の活発な動きを高精度なfMRIで観測することは、決してその人物の主観的な意識体験を共有しているわけではない。
このフレーズ全体としては、「お互いの主観的な意識体験の断絶と、主観として有している情報の差が存在し、それらを考慮して修正しようとする想像と推測を以て、却って歪曲されていく」という意味だと捉えられるだろう。
知っちゃった
推測されるテーマ:陰謀論批判を継いではいるが、むしろ思弁的実在論に至る直前の相関主義的な世界観における無力感の表明
哲学のジャンル:相関主義と思弁的実在論
この楽曲についてはきぃ氏が要点をほとんどすべて解説してくださっているので大枠は譲るとするが、少しばかり補足をすると、以下の歌詞はメイヤスー『有限性の後で』における強い相関主義=信仰主義に対する批判の箇所であり、陰謀論批判と繋がっている。『有限性の後で』では相関主義の齎す問題点を指摘した後、相関的循環の裂け目を見出しその外部へ突破してゆく態度を模索する作業へ入る。
(おそらく原文の一部改変だと思われるのだが、当記事の著者が肝心の原文を発見できていないため、出典の明示は保留とする)
デュレエ
タイトル:ベルクソンの哲学における主要な概念“持続(durée)”
推測されるテーマ:実存主義と、ベルクソンの創造的進化を基盤とするヒトと初音ミクの虚構性・創造性・生命性の肯定
哲学のジャンル:実存主義とベルクソンの生の哲学
“考察”に近い考えではあるが、「意思が投げられてきた」は「石が投げられてきた」との掛言葉であると同時に実存哲学における投企(project)のことだろう。「身体が伴っていたら」も、身体性(embodiment)についての議論を包含した表現なのかもしれない。
これも特に哲学用語であるとしなくても解釈はできるが、鉤括弧で括られているのであえて哲学用語として捉えるのであれば、まずハーバーマスが、次点でフーコーが想起される。実存主義と公共性の概念が明確に落ち合うのは主にハンナ・アーレントにおいてだが、正味ここの部分は主題でないだろうと思われるため言及に留めておく(一応、アーレント本人は実存主義者との自認をしていなかったことは付記しておく)。
タイトルに偽りなく、以上の歌詞はベルクソンの用語、特に『創造的進化(L'Évolution créatrice)』から引いている。
「上へ向かった力=(生の)飛躍(élan vital)」「作用(action)」「持続(durée)」「映画仕掛け(mécanism cinématographique)」「機械論(mécanistique)」、いずれもベルクソン『創造的進化』における中心的な概念である。
先程まではフレーズ全体の換言を試みていたが、この概念すべてを平易な言い方へ置き換えるのはなかなか骨が折れるため、この場では一旦省略することにする。サブテキストを示すこと自体はしたため、興味のある方は読まれるとよいだろう。
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