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二人だけの予餞会

 

 体育館からもれてくる音楽に混じって、はしゃぎ声が聞こえてくる。予餞会のライブの声かなと思って、反対側のグラウンドの方から聞こえることに気づく。席に座ったまま窓の外を窺えば、グラウンドを走り回る影が見えた。
 女子が八人。襟元のスカーフが青色だから、たぶん二年生。抜け出して悪い子だなあ、と呟けば、人のこと言えないでしょ、と頭を小突かれた。顔を向ければ、先輩は素知らぬ顔で外を眺めている。

「言えますもんー。ちゃんと三年生と一緒だから、プチ予餞会ですもんー」
「屁理屈だなあ」

 先輩は声をたてて笑う。幼さの残る丸い目が、きゅっと細くなる。目尻に向けて水流みたいな線ができる。こっちに向いて、という思いと、そのまま笑っていて、という思い。どちらも口にできないまま、外に視線を戻す。
 グラウンドの女子たちは、地面に丸い円を書いていた。円の中に二人と、その二人を見張るみたいにすぐ外に一人。他の四人は散り散りにばらけていて、残りの一人が近づくたび、歓声を上げながら逃げている。
 助け鬼だな。小学生の時によくしたのを思い出す。鬼にタッチされたら陣地に入って、鬼たちの目をかい潜って仲間にタッチしてもらえたら、また復活できる。そんな遊びだった気がする。

「あれってさ、考えた人絶対いい人だよね」

 知っていますか? 聞こうと出しかけた声を、変声期を終えたにしては少し高めの声が遮る。幼さの残るそれに手繰り寄せられるように、視線を向ける。いつもは数学係の子が座っている前の席。そこに先輩がいるだけで、変わらぬ景色が色づいて見える。

「いい人、ですか?」
「うん。だって、助ける方結構リスキーじゃない? 陣地に近づくのも難しいし、そこからさらにタッチなんて、もっと難しい」

 いつかの幼き日を思い出す。校庭の遊具の影に隠れながら陣地に近づいたあの時。どれだけ注意しても、前で番をする鬼に捕まることが多かった気がする。
 黙る私を見て、ね、と先輩は首を傾ける。長めの前髪が、飴玉みたいな目にかかる。

「自分だって捕まるかもしれないのに、ちゃんと仲間が助けにきてくれるって信じて作られてる。だから、優しいなって思うよ」
「たしかに、先輩は助けに行かなさそうですもんね」

 空気が固まる気配がして、言葉を間違ったことを悟る。ごめんなさいの声を出す前に、薄情者だからね、と乾いた声が響いた。

「卒業式で泣いたことなんてないし、本とか映画もどこか他人事で見てる。県外に行くから菜津と離れることも、実はそんなに寂しくなかったりするし」
「そこは寂しがってください!」

 思わずつっこめば、先輩は「冗談」と歯を見せて笑った。薄い唇の間から覗く八重歯に、心音が高まる。
 そうだね、助けに行ったことなかったと思う。机に肘をつき、外を見ながら先輩が呟く。視線の先を辿れば、おさげの女子が、捕まっていた子をちょうど助け出したところだった。鬼に捕まらないよう、手を繋いで走り去っていくのが見える。
 薄情者は、会ったこともない、遊びを作った人のことなんて考えたりしませんよ。それに、大きな音が苦手な彼女に付き合って、大事な会抜け出したりしませんよ。言いかけて、でもやっぱり口を噤む。卒業式で泣かないこと。物語でも現実でも、俯瞰で物事を見てしまうこと。他にもたくさん。あなたが冷たいと捉えている一つひとつが、私には堪らなく優しく、愛おしく見える。そう言えば、先輩はどんな顔をするのだろう。きっと、何も言わず俯いてしまうに違いない。左の耳を、指先で弄りながら。
 照れた時に先輩がする癖。他にも、機嫌が悪い時にするのとか、嬉しい時にするのとか。ずっと前から、たぶん私だけが知っている癖。どれか一つだって教えてなんてあげない。素直じゃない先輩の、案外素直なところ、なくなっちゃったら寂しすぎる。

「先輩」
「ん?」

 グラウンドを見たまま、先輩は返事をする。
 机に手をついて、はしゃぎ声に気を取られている横顔に影を重ねる。一瞬の接触。紙のように白い頬は、見た目よりずっと温かかった。
 唇に移った温もりを感じながら椅子に座り直す。先輩は口をぽかんと開けて、触れたところに手をあてていた。丸い目がさらに丸くなっている。まるでモモンガみたい。

「私はちゃんと助けにいってあげますね」

 心で溢れる桃色に上がる口角のまま言う。
 見開いた目がゆっくり開閉する。言葉を脳に巡らすまでの少しの空白。そうして茶色がかった瞳がもとの丸さに収まった時、先輩の口端には微笑が浮かんでいた。

「薄情者でも?」
「だからこそですよ」
「どこにいても?」
「いきますよー、県外でも県内でも。海外は……パスポートがないので応相談です」
「何それ」

 笑い声が鼓膜を震わす。擬音にするなら、けらけらが近い。でも、近いだけでぴったりじゃない。今じゃないと聞けない、明日になれば忘れる音。それに耳を澄ますように、私は静かに長い瞬きをした。