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ショートヘア


 「小さな時からずっとショートヘアだ」と言うと、たいていの人に驚かれる。厳密に言えば、成人式の時に振袖で結うために、鎖骨までは伸ばしたことがあるのだけれど、細かく言うのも面倒なので、「(ほぼ)ずっとショートヘアだ」ということにしている。
 「ずっとショートだ」の後には決まって、「伸ばそうと思ったことはないの?」の質問が続く。どうも、女子は髪が長いのが好きな生き物だ、というのが世間の認識のようで、十中八九聞かれる。その度に私は「ありません」と首を横に振る。そして「珍しいね」と言われるまでが、初対面の人との会話のワンセット。

 長い髪が嫌いなわけではない。現に、私の書く女性の登場人物のほとんどは長い髪をしていて、見る分(書く分?)には大好きなくらいだ。雑貨屋などの店頭に並ぶ、バレッタやシュシュやピンを見るのも好きで、可愛いのを見つけた時には「ロングばっかりずるい」と勝手な不公平感さえ抱いてしまう始末。けれど、いざ自分がどんな髪型をするかとなると、ショート一択になってしまう。それも、耳も首筋も出したベリーショート。

 ショートは特別な気がする。街を歩く人も、学校の中も職場の中も、どこだって女の人は長い髪が多くて、短くてボブくらい。そんな中で、思いっきり短な髪はただそれだけで目立つ気がする。

 幼い頃、私は特別になりたかった。テレビに映るような、何かに秀でた人。誰かの記憶に強く残れる人に。けれど私はさして頭も良くないし運動はからっきしだし、器量良しというわけでもない。それほど時間をかけずとも、自分が特別になりうる存在ではないのだと幼心に悟った。
 悟りはして、けれど諦めの悪い私は、それをそのまま受け入れることができなかったのだろう。忙しくて、娘の髪にまで手間をかけられないという両親の都合で短かった髪は、成長して自分で好きな髪形を選べる・できるようになっても、そうして短なままであるようになった。もっとも、幼い頃のことなので、「ようになった気がする」という話なのだけれど。

 特別に憧れたあの頃から随分経ち、今はもうショートヘアが好きだから、という理由で短いのを保つようになった。月に一回はカットに行かないと保てなくて、これはひょっとして不経済なのでは…?と思うこともたまにあるけれど、髪を切った直後のあの自然と背筋が伸びる感じ、踵を打ち鳴らして歩きたくなる感じ、切ってやった!という爽快感、それを味わいたくて今日も「いつも通り」をオーダーする。
 頸にあたる日差しの温かさ。耳を撫でる風はまだどこか冬の気配を残して。短めの前髪で露わになった額には変な誇らしさが宿る。セットしてもらって、きっと今が一番きれいな形だから、一つ向こうのバス停まで歩いて行こう。そんなことをイメージしていると、髪を切りたくて堪らなくなってきた。結局、どんな髪形にしても、髪を切るというのは、身近で、特別な出来事なのだなと思う。