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旅のおわり、そして始まり〜神楽(宮崎県諸塚村)

和暦新年と新月を迎え、立春を前に、いよいよ本格的に新しい年の幕開けです。
本年も何卒よろしくお願い致します。
記事を一部、書き換え、新たに今後のことも含めて書かせていただきました。

【日本の故郷の音を追って】
2010年、日本各地の郷土芸能が消えているのを知って、その現状を調べ始めた私は、『日本のふるさと音めぐり』という舞台、インターネット、雑誌の3つを組み合わせた企画を立てました。

当時、企画に賛同して下さったデザイナー、写真家、ウェブクリエイター、野菜ジャーナリスト、イラストレーターに加えて、日本の音楽専門誌の編集長や民俗音楽学者で神楽の研究者である小島美子先生にいろいろなことを学びながらのスタートでした。

しかしながら、当時の私には、なぜ郷土の芸能が消えているのか、理由が分からなかった。そこで、すべての仕事を辞めて、ひとり、故郷の盆踊りの音頭とりの継承者となりました。

故郷の芸能は、世代を繋ぐ役割を持ち、子ども達を地域で育てる場であった、と考えて、畑に囲まれた場所に、稽古場を構え、それを再現しようとしました。

神戸市西区神出町。
東経135度線が頂上を通過する山の麓に、全世代が集う稽古場『郷音舎』をかまえました。

新しい太鼓芸能に、故郷の芸能を織り込み、高校生たちが80歳、90歳の大先輩達に学ぶ場所を設けたり、地域の芸能や民話を掘り起こして形にしたり、みんなで祭りのお手伝いに行ったりしました。

2020年、その場をご覧下さった方から、淡路島での教室立ち上げ依頼を頂き、淡路島に移転したのを機に、農に挑み始め、農に詳しい方々のご協力でこども農園を立ち上げます。

なぜ、農か、というと、太鼓は、単なる楽器ではなくて、天に感謝や祈りを伝える大切な道具であり、郷土芸能が消えたのは、農業、漁業、林業の高齢化と機械化により協力の場がなくなり、祭りが消えたこと、そして、それは、自然への感謝や祈りが消えたことを表していることに、氣付いたからです。

自分で大地に種を蒔くと、大地と水と風、太陽が育ててくれる。太鼓はそのことに感謝する道具であった、そこに立ち戻るために、農に向き合いました。

淡路島では、農にたずさわりながら、昔の水源などを大事に管理する方法を次世代に伝えるなど、生活の中の祭りや盆踊りをもう一度、復活させたい、と若い方々が相談に来てくださいました。

昔の音源を探し、地域の方々と共同で場を立ち上げていきました。

東と西、世界中、美学は異なります。
西では澄んだ音が好まれても、
日本の楽器はわざわざ雑音(倍音)が出せるように改良したりします。
そもそも、聴覚がちがうことに気づいていました。

だから、自分たちを変え、誰かに好まれるように生きなくとも良い。足元の文化を他者に見せるためではなく、自分たちのために大事にすることが大切だと思いました。

神出の稽古場は、神出の神楽を復活するために構えた事に立ち戻り、それを決行しよう、と決めました。

神出の郷の音から始まり、淡路島の海の音にたずさわり、次は山の音。
山に囲まれた、この地なら、本物がまだ残っているかもしれない。

『本物』と書いたのは、私が歩いて来た限りではあるけれど、日本は、沢山の文化が切り刻まれてバラバラになっており、どんなに歩いても、片鱗ばかりを集めているようだった経験から感じたこと。

宮崎県の諸塚村。
現地に着くとすぐにエプロンをつけて、地元のお姉さん方に教えて頂きながら神楽の時に振る舞う煮しめの野菜を刻み始める。

外では男性たちが御神屋(みこうや)を建てる。なかには林業に挑んでいる女性たちも混じる。木を扱い、家を建てる練習みたいだ、と思う。

毎年1月11日に『太鼓の口開け』が行われ、太鼓に御神酒を捧げ、練習始めなのだそう。

私は諏訪大社の神楽を復活させるために組太鼓という文化そのものを生み出した地からスタートしました。10年間の奉納活動、太鼓の中には神さまがいらっしゃると学びました。

その日の夜は、御神屋(みこうや)で遅くまで稽古が行われ、その周りでは、村の皆さんが忙しく明日の準備をしながら、めいめいに飲んだり食べたり。
遠くから研究者の方々や写真家、絵描きさん、ルポライターさん、学生たちも集まって、みんなで見守る。

なんと、そこで、郷音舎を立ち上げるきっかけとなった『日本のふるさと音めぐり』でお世話になり、『寒い凍てつく中で芸能を見る、そうやって自分の足で歩きなさい』と言って下さった民族音楽学者の小島美子先生の名前を聞く。

10代で内弟子に入った当時、出会った国立劇場の研究者の先生方の仕事を、そこにいらした研究者である早大の渡辺伸夫先生から聞いた。懐かしかった。
やっと帰って来れたのだ!

泊めて頂いたお家は、5年ぶりに行われたこの神楽を、以前、中心になって進めて来られた方のお家だった。
もともとは、神楽宿で、お隣のお家が御神屋だったと教えて頂いた。

朝炊いたご飯を水神さまと稲荷さまとお仏壇に御供えして感謝してから、私たちもご飯を頂くのよ、と教わる。

台所の水神さま

頂きものも、まずは、御供えしてから、と幼い頃から言われたよ、とも教わる。
ここで、私はネイティヴ・アメリカンのアニシナベ族の方々を思い出す。
2019年にアメリカでネイティヴ・アメリカンの儀式サンダンスに参加させて頂いた。彼らも、自分たちより先に、創造主に捧げてから、自分たちの食事をとっておられた。
茅葺き屋根、五右衛門風呂、土間があった祖父母の家を奇跡的に体験して育った私も、幼い頃から、身近にあった風景に、心が安らぐ。

神楽の日。
きれいに飾り付けられた御神屋に、米、酒、餅、野菜や魚などが供えられる。

12時から『門出』の小宴。
神面や神楽に使用するもの全て、御神屋で神官の祓いを受け白鳥神社に向かう。

神社で祭典を終え、『舞入れ』行列が出発。

舞いながら集落をまわり御神屋に到着、神楽奉納が始まる。これがだいたい午後3時頃で、その後、翌朝まで奉納は続く。

5年ぶりに行われたので、初めての若者もいらして、皆が一生懸命に勘を取り戻そうとするような印象も受けた。

神さまがお一人お一人に降臨するような感じを受ける。
夜中3時頃には、にこやかに笑みを浮かべて舞う姿が見られる。現世にいるようには見えない不思議な領域。
人にも自然にも動物にも八百万の神さまがいるんだなあと見ていて改めて思う。
朝方には、全員のお顔が別人のようになりスッキリと美しい。

幼い子ども達は、神楽の舞に合わせて、遊んでいる。

明け方。(四十四番 岩戸)
日の出と共に神々様の代表である春日大神さまが天照大神さまの手を取り天の岩戸からお導きになる舞。

そのあと、天鈿女神などの舞や、火の神さまの舞は台所の前にも訪れる。
さいごに、舞手全員が並び、神主さまによる儀式が行われた。

続けて御神屋を元通りにする。
私はフェリーの時間があるので、ここまでのお手伝いとなった。

すべての過程で体験したものは、私がずっと探していたものだった。

準備の段階で、男性も女性も、大先輩から、生活の技術を伝承される。儀式や自然に向き合う姿勢も教わる。子ども達は、周りで遊びながら、体感する。

ここには、老人ホームも子ども食堂も必要ではない。それらすべてが、本来なら日本の村には含まれていたのだ。

日本にまだこんな場所があったのだ!と思った。この場を維持することの大変さを乗り越えて、受け継がれる皆さんに深く感謝と尊敬の気持ちが湧いた。
もともと神職の方々が舞われていた神楽だが、神職の方々が舞い踊ることが禁じられ、村の人たちに受け継がれた。
その過程でも、多くのものが変わり失われたことだろう。

ネイティヴ・アメリカンの方々の事を書いたのは、わざわざネイティヴ・アメリカンの地に赴かなくてはいけないほどに、日本が日本の文化を忘れてしまっていると考える方々もいるからだ。

言葉や文化を奪われ、根っこを切られたインディアンの若者達は、次第にアルコール中毒などに悩まされるようになった。
自分たちの土地や文化を返してほしいと、インディアン達を率いアメリカの地をホワイトハウスまで歩いて行った故デニス・バンクス氏は、日本から来た若者達に、自分自身の生まれた地の文化を同じように大切にするように、とおっしゃっていたそうだ。

日本で、若者たちがそれを見つけるのは、至難の業だろう。
観光化され、祭りはイベントに、儀式はパフォーマンスになってしまった。

私自身がそうなのだ。自分が行き詰まった全てが理解できた。
そして、2010年に始まった探求の旅が終わったのを感じた。

帰ってからしばらく、写真を眺めていた。
なぜ天照大神さまは、子どもなんだろう?

そうか、子どもは未来なんだ、と思った。
天の岩戸から出て来られた未来。
闇から光へ。
子どもは常に光なのだ。

もう一度、勉強しなおそう!


渡辺先生に45年もの間、通い続けてまとめられた分厚い報告書をプレゼントされた。さらに神楽を取り仕切っていらっしゃる方々から、貴重な御幣や面棒を頂いた。

それを持って、映画「スズメの戸締り」と同じ宮崎、フェリー、四国、淡路島、三宮のルートを走っているのが本当に不思議だった。

これを宮崎から東経135度線上に運ばされているように思えた。
なぜなら、私は、御神屋を建てる前日まで、現地には行けないと思っていたからだ。本当に直前になって行くことが決まった。

また、宮崎に移住し研究するお話もあった。
私にとってまたとないチャンスで本当に嬉しかったが、自分の仕事は、素晴らしい場を見つけて、それを現代社会に繋げていく事だと思った。

再び淡路島に戻り、新月を迎えて、日本に神さまが全て戻って来られるように思えた。

古代文明の証であるコトバが突然にウタとなって降り注いだ時には、なぜか、その研究者のお弟子さんたちばかりと出会い、私はお弟子さん達の活動を支援するように動かされた。

このように、私たちは、1人であるようで、本当は全体なのだろう。

受け入れて下さった村の皆さまに深く感謝します。
宮崎県、諸塚村の職員の皆さま、山の神さま、水の神さまにも感謝します。
ありがとうございました。
お読み頂き、ありがとうございました。

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