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想像力という力

  学力、判断力、対話力…いろいろな「力」にスポットが当たっては、その必要性だけは理解しても「その力が無いから困っているんだよ」という人は多いと思う。だから、人が知りたいのは「どうやって」その力をつけるか。出来るだけ早く、簡単に、その力を得たいという人が多いからこそ、そういうノウハウ本は売れるし「〜力」というタイトルの本が売れる。
 もう一つ私の専門である「英語力」も今多くの人が喉から手が出る程欲しい力だろう。英語力を上げるためのノウハウ本はダイエット本と同じく即効性は無いと分かっていても、人が手に取ってしまうものだ。

 人の英語力を伸ばすお手伝いをすることを生業にして十数年経つが、その中で私が気付いたことは「英語力」なんてものはそもそも無いということだ。英語はツールで、その言語をどう扱うかは日本語同様それをどう使うか、ということに繋がる。結局それは「その人」であり、その人がどう人と関わっていくかに関係する。それに気付いてから、英語を通して「その人」を見る様になった。
 そこで気付いたことは、結局どんな力もその人の「想像力」に関係するのではないか、ということだ。

将来のために

 私たちは「これさえ頑張っていたら、幸せになれる」と人に言い聞かされて育ってきた。
「将来のためにこれをしておきなさい」
「そんなんじゃ、将来立派な大人になれない」
 そうやって「今」をないがしろにしてきた。

 みやぞん氏があるテレビ番組で「今が積み重なって、それが未来になり過去になる」と言っていた。幸せな「未来」は幸せな「今」の延長線上にあるのだ、と。私たちは「今」を幸せに積み重ねてきただろうか。私たちの「今」は未来に向けての苦行ではなかっただろうか、ふとそんなことを思う。
 そしてその苦行の中にいて、幸せな未来を細かく想像したことがあっただろうか。ただ闇雲に今の苦行を続けることでいつか幸せになれるのだろう、と信じて目の前のことをこなす日々を送る中で、私たちの根っこに想像力は十分育ったのだろうか。

犯罪者たち

 盗撮、万引、薬物、暴行、殺人… 私は子どもの頃から罪を犯す人たちがなぜそれに至ったのかに興味があった。どんなに想像してもその犯罪を犯す意味がわからなかったからだ。今思うと、私は幸せな子ども時代を過ごしたのだと思う。犯罪心理の本を読んだりして、犯罪に至る中で苦悩を強いられた人のことも知ろうとした。
「あの人は犯罪者だ」と断罪するのは簡単だし、私の周りの多くの大人がそうしていた。でも、「あの人は私たちとは違う」と言い切って終わりにすることに、未来はあるのだろうか。そんな違和感も湧いていた。
 もしかしたら私たちの誰もが犯罪者になり得るのではないか。私は犯罪を犯す人の気持ちがわからなかったから知りたかった。でもそれは自分もそうなり得るという未知の恐怖から、だったのかも知れない。犯罪を犯すに至る人の気持ちや状況を知ることで、想像したかった。そうなる時の自分を。「あの人たちと自分は違う」と言い切ることで、人は想像することを止めてしまうのかも知れない。自分をその世界から切り離してしまうのだ。
 そして多くの人たちが「自分の中に潜む弱さ」を無視してきた結果、今多くの犯罪が「捕まって初めて罪の重さを知る」想像力の無さを感じさせるものとなっている。
 その行為に手を染める時に想像が出来なかったのか、「家族にバレたらどうしよう」「犯罪者にはなりたくない」自分の犯した罪と、自分自身の理想がかけ離れている人の姿を見て、胸が痛くなる。少しの想像力があれば、自分を止めることは出来たかも知れない。

自分とは関係ない

 想像力の欠如は社会問題にも大きく影響している。ホームレスと呼ばれる人たちのことを、「頑張らなかった人」と言う人を多く見てきた。私が信頼する友人や身内もそんな言葉を軽々しく発していたので、衝撃を受けたり違和感をもったりするのだが。どんなに良い人でも思いやりのある人でも、ふとそんな言葉が出るのは、その人の根っこに深く植え付けられたものの影響だと感じる。そこに倫理も道徳も思いやりも寄り添いも感じられないが、当の本人は今自分が生きている小さな世界の中では「親切で良い人」で通っている。それが怖い。

 人として生きるからには、備えられた想像力を存分に伸ばして、自分の見える範囲以上のものだって知ることが出来るはずだ。そして、その想像力で寄り添いが生まれて優しい社会を作ることだって可能だ。現にそれを実現している国や地域もある。
 ただ社会を作る人たちが素直な民を利用するには、その「想像力」は邪魔である。民を自分の思い通りに動かすには、個々の考えよりもリーダーが作りたい社会を実現できる様にリーダーの考え方を「当然のこと」として統一を図ることが一番楽なのだ。
「これが出来ない人は頑張ってないからダメな人」は、自分たちのためにせっせと働き文句を言わず自分たちに従え。何かの理由でそれが出来ない人は、自分たちを支えることは出来ないからダメ。そんな雰囲気を家で学校で社会で日々感じ、あらゆる言葉で聞かされ大人になる私たちに、むしろ違和感を唱える気持ちもなくなる。「この制服がスカートじゃなくてズボンだったら」なんて想像さえ止めてしまう。
 理不尽なルールも意味のわからない指導も、それに従うことが一番面倒ではなくて楽な生き方だ、ということを私たちは子どもの内に身につけさせられる。

STOP! 想像力を伸ばさない教育

 「統一すること」の美味しさをずっと感じてきたリーダーたちは、それを止めることと多様化が関係しているという想像が出来ない。
 結局学校現場や社会では未だに「ルールに従えない人は、いかなる理由があってもダメな人」「あの人は変だから」「自分たちと違うのはおかしい」という空気を出し続けて多様化を前に進めようとはしていない。「多様化」とか「SDGs」とか「やってる感」だけ出して中身はほとんど前に進めない。それらを進めているのは、社会から「変だ」と言われる人たち。私もその中の一人なのだろうが、違和感を唱えたり、「そのルール必要ですか?どんな風に?」と面倒な質問をするから「変な人」。でも私は今後はその「変」な人がこの国を動かしていくんだと期待している。そんな人たちは少なくとも主体的に生きようとしているから。

 私がまず英語教室でするのは「日本語でもいいから教えて」とその人の心の中を目の前に出させること。
「もし〜だったら、あなたならどうする?」
「なぜそっちを選んだの?どうしてそう思うの?」
 そしてこの問いが年を重ねるにつれて難題になっていくことを実感する。
「答えたくない」
「そんなこと考えても意味がない」
「これが一番辛いです」
 幼児より小学生、小学生より中学生、それより大人…
 よくよく考えると答えは簡単なのだが、こんな問いに日本語でさえ答えられない人が、英語でこれを表現するのは不可能ではないだろうか。もはや英語の知識やどれだけ言葉を知っているか、ではない気がする。
 結局「そんなことを聞かれたら、"I like to play soccer."とか"Because it's fun."って答えたら合格は出来るから」と小手先の技術を教えるに終始するテスト英語は、英語力やコミュニケーション力とは繋がらないということだ。

 そんな中一際目立つのは、目をキラキラさせて想像の翼を広げる子たち。
「僕だったら〜する!」「だって〜だもの」
 そういう子の多くが、きっと学校では目立っていることだろう。出る杭として打たれているかも知れない。そんな心の痛みを感じつつ、だからこそ私の教室では「自分の考えを持つことは素晴らしい」という文化を充満させている。その想像は、その子の人生の中でワクワクを積み重ね、経験から学ばせてくれる力になると知っているから。

 大人になっても「変な人」と呼ばれるたちは魅力的だ。想像力があり、ビジョンがある。自分が今こう動くことで、社会がどうなるかを考えている。
 結局今文科省が言っている「主体性のある」人は社会の中では「変な人」である。今学校や社会で排除されようとしている、また排除され続けてきた人たちが、想像力を持ち主体的に生き続けてきた人たち。
 そんな人たちの声に耳を傾け、寄り添うリーダーがこの国を本当の多様化に導いていくのだと真剣に思いつつ、私は今日も教室で「もし〜だったらどうする?」「どうしてそう思うの?」という問いを発し続ける。

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