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「時間がなくて、宿題ができませんでした」

 小さな英語教室で、子どもたちと毎日楽しく過ごしている。
私は叱ることをしない。話せばわかることばかりだからだ。必要なことは、ゆっくり時間をかけて子どもたちの言葉を聞き、私の考えを伝える。
そしてお互いにとって良い形を選ぶことにしている。

 宿題は出す。でも、して来なくても叱らない。ただ、語学は触れれば触れるほど力がつく、ということは日頃から伝えている。私としては宿題はただその日の復習を日常的にしやすいように「日常的に英語と触れたら力がつくのが早いよ」とサービスで出しているだけ。それを掴むか掴まないかは、子ども次第。君のタイミングは今じゃないかも知れないけど、いつかタイミングが来たら、私の言葉を思い出して欲しい。そんな気持ちを込めて宿題を出す。10年先でも20年先でも良い。

 教室に入りたての子が宿題をしていない時の理由ダントツ一位はこれ。
「時間がなかった」。ほぉ。時間が。ない。
疑わない。だってそれが事実だと知ってるから。この言葉の意味を細かく分析してみると「(自分の中の優先順位として、英語に費やす)時間(と気持ち)がなかった」ということになる。でも、だからと言って私の感情は別に1mmも動かない。

 だって英語教室に通う子どもたち全員に「何よりも英語を優先させる」モチベーションがあって、それが小学生の6年間ずっと維持され続けている方が驚きだ。ある時は他のことに熱中したくて、ある時は友達とずっと遊んでいたい。ある時は友人関係に悩み、ある時はゲームに熱中。そしてある時ふと英語、ちょっとだけ上手になりたいな、と思うかも。そんな感じでいい。
 十分理解した上で、私はその「時間がない」(訳:英語は今、自分のタイミングではないし、英語に費やす時間も気持ちも微塵もない)なんて言葉を毎週聞くのはしんどいし、「君たちが宿題をしようがしまいが、私自身の英語力には全く影響しない。だから宿題をしたとかしなかった報告は要らない」とした。文字にすると冷たいけれど、言葉にするとまぁ、当たり前という話。先生のために宿題をするわけじゃなくて、全ての結果は自分に返るだけ、ということを事実として伝える。私は叱らないけど、自分は厳しいと思っている。常に自分で考えることを要求するから。

 授業で見ていてすぐわかる。宿題をした子は発音も良いし、飲み込みも早い。何よりも英語がスラスラっと出てくる。大いに褒め称える。しなかった子は褒めもせず叱りもしない。ただタイミングが来たら波に乗れるように、教室にいる間だけでも英語に触れたら良いね、と伝える。一緒に大きな声で音読したりリピートをする。「ちょっぴり上手になったね。家でもう一回言ったらきっとめちゃくちゃ上手になって来週ビックリしちゃうかも!」なんて言いながら送り出す。

 宿題を強制的にさせられて怒りながら、また反感を持ちながらするよりも、宿題をして上手になる手応えを味わいながら、その充実感を燃料にして前に進む方がずっといい。何にせよ、自分の納得以外で前に進むことはできないのだ。大人になってそれがよくわかるから、子どもたちにもそう伝える。大人になって得るものは、権力ではなく経験。
いつまでも子どもたち同様に学ぶ者でありたい。

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なみお
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