無色透明な英会話講師
私の英語教室に、地域のケーブルテレビが取材に来たことがある。その時教室にいた生徒に「どんな先生か教えて」とレポーターさんが尋ねたところ、子どもたちが「無色透明って感じ」と言ったのが印象的だった。とても心地よかった。正に私は無色透明でありたかったから。
私にとって毎年一緒に過ごす子どもたちは我が子の様な存在。数ヶ月、数年するとクラスの子どもたちは兄弟の様になり、家族の様な雰囲気が漂う。
週に一度だから、いないと困る間柄でもない。でも通うのが嫌になる様でも困る。安心してそこにいられる、そんな場所を作りたかった。
ある年の低学年クラスは、とにかくいがみ合っていた。おやおや、と様子を見ながらも私は私の意見を言い、子どもたちそれぞれにも常に意見を求めた。その中で伝えるのは「嫌なことを言われるかも、って強い言葉を使うと、それが止まらなくなる。ここでは嫌なことは言うまい、ってみんなが思っていれば、誰も嫌なことを言われることはない。」ということ。
私は子どもたちと関わる中で、震えながら嫌な言葉で自分を守っている姿を見たから。きっと学校や他の場所で、言葉で痛めつけられた経験があるのだろう。人は、きちんと学ばないと言葉の使い方を誤る。
ここは言葉を扱う教室だから、言葉の力も伝えたい。言葉は間違った方向に使うと大変なことになる。人を傷つけ、自分も苦しむ。でも使い方によっては人も自分もハッピーになれる。少しずつそれを伝えていく。もちろんここではどんな意見も受け止める、ということも伝える。
たいてい毎年、ここでは安心して話せる!と思ったら全員が同時に喋り出す。私はそれをなんとかして聞き取ろうと努力する。けれど、難しかったら「ごめーん、聞き取れんかったから、一人ずつ言ってみようか。ちゃんと聞きたい!」と一人一人に話してもらう。せっかくここで安心して話せる、って思ったのに、ここで発言を止めてはいけない。丁寧に伝えて、発話を促す。そこからだったら、英語だけじゃない、何語にだって繋げていける。
自分を開かない場所で、リアルに言葉を学ぶのは困難。
最初に教室に来る子どもたちは、1年生や2年生。学校では最初のスタートを「黄金の3日間」と呼び、厳しくルールなどを教える時期。私にとってもこれは黄金の3日間。「とにかく話そ」と伝える。最初は混沌としてぐっちゃぐっちゃ。学校みたいに人が多くて先生ワンオペなら、収集がつかなくなってクレームものだ(ここに人手があったらどんなに良いかと思う。全学校にお金つけて欲しい)けど、教室では数人単位だから大丈夫。
混沌から人間関係を作っていく。ルールのないところでどう動くかを見てから、どんなルールがあったら便利かを一緒に考える。
しばらくすると「あれ、先生なんで怒らんと?」って聞かれる。そこで話す。相手がどんなに小さくても同じ目線でなんとか伝えようと努力する。
最初は驚くほど言葉を聞こうとしない子たちが、週を追うごとにどんどん私やクラスの友達を気にかける様になる。先生と生徒ではなくて、人同士として馴染んでいく。
毎年春には新しいクラスが始まり、そのクラスとの人間関係作りが始まる。2-3ヶ月は混沌としている。一緒にルールを作っては破られ、また一緒に理解を深めて何度も上塗りしていく。
2年目、3年目のクラスの子どもたちに会うと「先生、疲れてますね〜。何かすることある?」と。その子たちこそ、2、3年前の出会いの時にめちゃくちゃ苦労した子たちだったりすると、もうしみじみと一人一人を抱きしめたくなっちゃう。彼ら自身が成長したことはもちろんだけど、それぞれとの関係自体が成長していることを感じる。
子どもたちは最初に、必ずいろいろな方法で私を試す。この人は信頼できる人なのか、その方法は時に静かで時に凄まじい。でも毎年これが繰り返されていくから、私は信じることが出来る。
初めての場所、初めての先生、初めての友達の前でどう立ち回ったら良いのかわからない子たちに心の中で「ここは安全な場所だよ」って伝えていたら、怒る気になんてなれない。
何年も前に私を散々泣かせた子に数年後、「あのさぁ、授業中ウロウロするのって、どうしてやろうか」と相談したら「そりゃ、不安なんだよ」と。あの時の君は不安やったんやね...と気付かされることもあって、またホロリとする。よー頑張ってくれたね、と。
英語教室の付き合いは長い。自分の気持ちをまだ言葉でちゃんと伝えられない頃、初めて出会う。そこで私が丁寧に安全地帯を示さないと、不安は拭い去れない。安心を共有して、ゆっくり関係を深めて、日本語でも英語でも言葉を正しく使ってコミュニケーションを取る、それこそ語学講師にできることだと思っている。
近道で技術だけを教えることはできない。私は会話の講師だから。
人と交わっていくプロセスを味わう楽しみと、いつかここを離れても余るくらいの安心感を届けたい。