自由で不自由な
先日、ある試験の面接官の仕事があった。
そこで驚いたのは、時事問題を知らない子どもが多いこと。自分を取り巻く環境や社会で起きていることを知らない子が多い。
なぜか、と考えるとすぐに家庭や学校が浮かぶ。きっと家庭は「学校でやってない」と言い、学校は「家庭で」と言うけれど。それに地域も加えて全部の責任だと思う。地域で言うと、子どもたちが選ばずに人と触れ合う機会がどのくらいあるかも関係あるだろう。
今は自分の欲しい情報がすぐに手に入る。自由なイメージだが、実は自分が欲しい情報だけに囲まれて実に不自由な時代とも言える。
自分の目を開いて世界を見せるのは、大抵自分の知らない世界。その扉を開くのは、ふとしたきっかけ。家族と一緒に見ていたテレビニュース、新聞を読みながら家族が話したふとした一言、学校で先生や友達が「大変だ」と話題にしていたこと、通学途中で会うご近所さんとの何気ない会話。そんなところだろう。狭いとはいえ、子どもたちの世界の中でも十分多くの人と出会う機会はある。
私は子どもの頃、父の影響で世界のニュースをよく知っていた。父はテレビで見たことを人に話さずにはいられない性分で、食事の席などで「この国ではこんなことが起きている」など話してくれた。その時は「また言ってる」くらいの感じでありふれた我が家の一コマだったが、今考えるとあの時私が自分の見える世界以外の場所に興味を示し、たくさんの人たちが暮らしている、困っている人がいればこんなすごいことをする人もいて…と世界を身近に感じていたのは、こんな父の影響なのだと今頃感謝している。
今は便利だ。それぞれが持っているツールで自分が好きな人と繋がることが出来て、好きな話題だけで盛り上がることが出来る。淋しくはない。満たされている。ただ、自分の世界がこの小さな狭いものだけだと、いつかその小ささの中で偏った考え方に支配されて、結果的に自由を失ってしまいそうな気がする。
自由とは、自分が知らない世界を知ること。そしてその広い中から自分の経験や生きている年月に合わせて生き方を選びとっていくこと。
言うまでもないが、狭い場所で探すより、広い場所で探す方がずっと多種多様で自分にマッチしたものが見つかる可能性は高くなる。
子どもたちが世界を広げるきっかけを作るのは、環境。「あの人がしてくれないから」と言う前に、自分が出来ることは何かを探してトライする大人の姿から、子どもたちは学んでいく。
実は狭い世界の中でもがいているのは大人なのかも知れないけれど。遅くはない、子どもたちと一緒に広い世界を見てみたら良い。あなた自身の人生観も変わって行くだろう。自分に人に、もっと優しくなれるだろう。