キリスト・イエスの僕(ローマの信徒への手紙1:1~7)

 約2年間、耳を傾けてきた使徒言行録が先週で終わり、今週からはローマの信徒への手紙である。この最初となる1章1節~は、重要な箇所であるため、数回にわたってここから御言葉に耳を傾ける。

 聖書は一人の人物が書いた書物ではない。編纂されたものである。聖書の最初の記述は、紀元前8000年頃が一番古い。紀元後約200年までの約8200年分がこの聖書のなかに収められている。旧約聖書39巻ある。新約聖書には27巻ある。さんくにじゅうしち、と覚える。その中で、一番多くの部分を書いているのがパウロである。エルサレムの神殿がローマ帝国によって滅ぼされて、エルサレムの神殿の中に収められた巻物を持ち出した人たちがいた。祭司たちは自決することになっていたが、その約束を破って逃げ出した人たちがいたため、旧約聖書が世界に伝えられることになった。聖書が編纂されたときに、ユダヤ人ではないと言われていた人たちがいた。それがキリスト教徒である。39巻から耳を傾けようとしていた。27巻を加えた66巻を加えた。手紙が加わり、ヨハネによる福音書とヨハネの黙示録までが最後に加わった。聖書にもいくつかの部分がある。ひとつは、歴史の部分を記す歴史的文書である。新約聖書でいうと福音書の部分。今いる人たちに宛てて書かれたもの。新約聖書でいうと手紙の部分、旧約聖書では箴言など。また、未来に起こることについて預言書がある。新約聖書では黙示録、旧約聖書では預言書の部分である。
 それぞれに書かれた目的がある。高校の生物の教科書を最初から最後まで読んでも、日本の総理大臣の名前は分からない。高校生が知っておくべき生物の知識については知ることはできるが、日本の総理大臣の名前は分からない。聖書には目的がある。聖書なのだからといって、何でもかんでも引っ張り出してきても意味がない。わたしたちは、これからローマの信徒への手紙を読んでいく。いまから2000年前の人たちが、ローマの人々に対して書かれた。パウロという特定の人物が書いた。当時は、奴隷がいた。当時は皇帝がいた。皇帝は法律そのものであった。今とはまったく違う社会情勢のなかで書かれている。大切なメッセージを伝えた。それをあの時からみたら、2000年後のわたしたちが耳にしている。パウロはこういっている、ああいっているということは意味がない。パウロがローマの人々に伝えたメッセージを聞き取ることが大事なことである。大切なのは、言葉尻ではなく、メッセージなのである。当時の状況と知っていると、なるほどと思うことがある。いつくかの知識をもっていると、分かることもある。
 パウロがどういう人物であったかは、使徒言行録で相当聞いてきた。ローマの信徒への手紙と書いてあるので、キリスト者だと思いがちだが、これはローマのキリスト者への手紙ではなかったということは、先週、きいてきた。

使徒言行録 28:17~22

先週、これはどこで書かれたかということをやった。ローマの信徒への手紙にも書いてある。

ローマ 15:22~26

要するに、エルサレムでつかまってローマに護送されてしまうが、その前のエルサレムにいたとき、使徒言行録19:21にあるところで書いているのである。パウロの歩んでいる歴史があって、それが聖書の中に登場している。そうすると、われわれが読んだところで、あれ?と思ったところがあるだろう。

使徒言行録 28:17

ローマにいる主だったユダヤ人たちである。彼らが、こういった。「あなたの考えておられることを直接お聞きしたい。」と。間接的には聞いている。いつか。それは、ローマの信徒への手紙を読んでいたのである。ローマの信徒への手紙は、ローマにいるキリスト者に当てて書いたものではない。ローマにいるユダヤ人たちに向かって書かれた手紙なのである。
だから、キリスト・イエスの僕、かみの福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロだと言っているのである。ユダヤ人に向かって言っている。聖なるものとなったローマの人たちは、イエス・キリストのものになるように召されている、と語っているのである。ユダヤ人なのに、ローマの人たち?どういうことであるか。ユダヤ人というのは、血肉のことではない。国際連盟のときに、ユダヤ人の定義がなされた。真面目な定義である。ユダヤ人であると思い、人からユダヤ人であると言われたら、その人はユダヤ人である。旧約聖書の神を信じるものはユダヤ人なのである。わたしたちキリスト者が、日本人であっても、あたらしいイスラエルとよばれるのと同じである。パウロは血肉からもユダヤ人であった。そしてローマの市民権も持っていた。ローマにいたローマ人であるユダヤ人たちは、旧約聖書についての学びはしている。しかし、わたしたちはなかなかそのことは分からない。この異邦人の中に、イエス・キリストのものになるものもいると書いている。1節には、キリスト・イエスと書いているが、4節にはイエス・キリストと書いている。イエス・キリストとは、イエス様の名前ではない。イエス様の本名は、イエス・バル・ヨセフである。バルというのは、・・・の子供という意味である。ヨセフの子、イエスである。ギリシャ語でイエスだが、ヒブル語ではヨシュヤである。約束の地カナンに導き入れたヨシュヤである。まさに救い主であったというのが、キリストという意味である。救い主、メシアである。もっと具体的に言うと、油注がれたものという意味である。神が、約束の地に導き入れたヨシュヤと結びつけて、キリスト・イエス。約束の成就者という意味になっていく。イエスが救い主であるという言い方ではなく、救い主であるイエスの僕というのが、パウロの最初の語りだしであった。僕というのは、奴隷という意味である。救い主イエスの奴隷であるというのが、パウロの自分に対する評価である。
 パウロが使徒言行録でイエス様に会うのは、9章であった。目からウロコということわざが生まれる場面である。サウロと呼ばれていたパウロが目が見えなくなる。

 使徒言行録9:1~

 サウロは、こののち目が見えなくなる。このときにイエスに会う。一体誰に会ったかわからなかったので「主よ、あなたはどなたですか」と。それは、ご主人さまという意味である。いまと同じように、神に対して語りかけるときに「主よ」と語りかけていた。「主よ」と語っている。自分が迫害して、殺そうとしているイエスが「主」であった。イエス様を「主」とよび、その主のもとで僕として生きる。
 しかし、そのイエス様は違うことを語っている人物であった。イエス様が十字架につけられる直前に、弟子たちに語りかけられたのは、こういうことであった。

ヨハネ15:11~17

イエス様は、十字架につけられる直前に、弟子たちを集めて「たがいに愛し合いなさい」と言われた。これが私の掟であるとまで言われた。わたしの命じたことを行うならば、あなたがたを友と呼ぶ。弟子たちのことを友と呼ぶと。僕ではなく友と呼ぶ。しかし、パウロは初めてイエスに出会ったときに「主よ」と言った。行くべきところにいけば、あなたがなにをしていくべきか示される。あなたがたが、わたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。パウロは、まさにイエス様を選んだのではない。むしろイエス様を迫害しようとして生きていた。イエス様によって選ばれて、任命されたのである。イエス・キリストの名によって祈るようになる。僕とはよばない。友と呼ぶ。イエス様がこう語られているのに、パウロは「キリスト・イエスの僕」と語っているのである。キリスト・イエスの友とは言っていないのである。イエス様が選んでくださったパウロが、友達と読んでくださっているが、その友と呼んでくださるイエス様によろこんで仕える僕になりたいと言っているのである。従わなければ地獄に落ちるからではなく、地上で不幸になるから僕になると言っているのではなく、わたしのことを友と呼んでくださる方に喜んで従いたいと、自由の中で、僕になっている。裁きではなく、愛によって包んでくださった。まったくの自由と自発のなかでかたっている。

 宗教とは、怖いと言われる。信仰を持つのは恐ろしいと。地獄や裁きで恫喝されて強制されると思っているからである。しかし、教会は自由なのである。誰もが教会に来ることはできるし、誰もが自由に教会から去ることもできる。全能の父なる神様が愛してくださっている。その中で、わたしもあなたを愛していますと語るのも、もうやめますと語るのも自由なのである。イエス・キリストの恵みと平和があなた方一同とあるように、と挨拶を送ったのである。自由の中で。これからの手紙、わくわくしながら読み進めていきたい。
(2017年8月13日主日礼拝 釜土達雄牧師)

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