イエスの時(ルカによる福音書22:47~53)
今朝は、この七尾教会が属している北陸連合長老会の交換講壇である。わたしは、高岡教会の牧師の風間である。ハイデルベルク信仰問答の問い37~39にもとづいて説教をしている。余談だが、七尾とはたいへん関係が深い。学生時代に東京神学大学のとき、夏期伝道実習で1ヶ月ここに滞在した。東神大を卒業して、岡山に赴任したが、その後高岡教会に赴任した。先日の入札にも理事として立ち会った。神様からの機会を与えられている教会に遣わされて、今朝は嬉しく思っている。
使徒信条の言葉、一言一言がある。わたしたちはこう信じているということを唱えている。その中での言葉について確認している。「苦しみを受け」というのはこういうことを言っているというのを、問答形式で確認しているところである。十字架という言葉を考えるときに、とても大事なくだりの部分を扱っている問答である。わたしたちが裁かれるというはずのこと、十字架につけられるということは、他の死に方とは違うということなどが確認をされている。聖書には、木にかけられた者は呪われると書かれている。そのように、とても大切なことを示している。
これらすべてが集中して現れている聖書の箇所とはどこなのだろうか。この3つの問答がぎゅっと詰まっているのはどこか。そうかんがえて、今日の聖書箇所を選んだ。イエス様が捉えられる場面である。たくさんの分岐点がある。十字架に向かっていくときには、多くのポイントがある。その中でも、イエス様が捕らえられる場面、最後の苦難と死を一気に引き受けられる大きな転換点が、今日の箇所である。
ならばここで、一体何が起こっていたのか。イエス様が何を見ておられたのかを見ていく。それが大事な作業になっていくであろう。イエス様がこの人間の中にご覧になったのは、何だったのであろうか。多くの群衆があらわれる。ユダがきて接吻をする。ユダはイエス様を裏切る。たいへん心に残る有名な「裏切りのユダ」であるが、これはユダだけの問題ではないと気づく。ユダだけがたいそうな悪事を働いたのではなく、イエス様を神の子と信じることができない罪が私たちの中にいる。その場面では、刀で切りつけた弟子がいたと記されている。ほかの福音書ではペテロであると言われている。やっぱりペテロは一番弟子だな、と思うわけにはいけない。このペテロもイエス様を裏切り、三度、イエス様を否んでいる。イエス様がご覧になっていたもの。それは、人間の大きな深い罪があったのではないだろうか。
いまは、あなたたちの時で、闇が力を振るうと言っていた。これが、この場面でイエス様の眼差しにはっきりと映っていたものだと思う。
では、それをみてイエス様がいったい何をしたのかということである。すべての福音書でこのイエス様が捕らえられる場面が描かれている。ご自身が捕らえられる最後の言葉が、福音書によって違っている。マタイでは「預言者の書いたことが実現するためである」とある。マルコでは「聖書の言葉が実現するためなのだ」と書いてある。かなり近いニュアンスである。そしてヨハネは「父がお与えになった盃は、飲むべきではないか」と書かれている。そして、捕らえられるようになった。一方で、神にそむく、イエスを亡き者にしようとする人間の罪があふれている現状をご覧になっている。聖書の言葉、神様の御旨、盃を飲むべきだと言っている。目の前には闇の時がある。はっきりとご覧になっている。ハイデルベルクがいっている「ポンテオ・ピラトによって苦しみを受け、十字架に向かっていく」その切替があったのは、この盃は飲むべきなのだと言って歩み出す。このポイントを見つめざるをめない。イエスさまは、この盃を本当に飲まなければならなかったのか。それを飲まなくてもよかったのではないか。
今日の箇所の前には、ゲツセマネの祈りの場面がある。「父よ、みこころならこの盃を取り除いてください」イエス様は、この盃を飲みたくなかった。飲むことを恐れておられた。心底である。他のことはよかった。しかし、この盃だけは飲みたくなかったのである。ほかのことはよい。しかし、この盃だけは飲みたくなかったのか。十字架の死は、神に呪われたものだからである。神と何の関係もないものと、神からもっとも遠いところへと断絶して追いやられなければならない。神の愛する独り子として、そのことだけは受け入れることができなかったのである。だから「この盃を取り除けてください」と汗が血のようにしたたりおちる。ここでのみ、神様に抵抗しているのである。ほかのことなら、どんなことも受け入れます。あなたから引き離されることだけは、受け入れられないと叫びの声をあげているのである。しかし、その盃を飲むべく、歩み出すのである。
今日の結論が出て来る。この場面で、御子を犠牲にしながらも私たちを救おうとする御心が、現れている。わたしたちの愛にあふれて歩み出すイエス様の姿が、ここにぎゅっと凝縮されているのである。いかに私たちを愛して、ご自身を犠牲にしてわたしたちを救ってくださったか。今日のハイデルクベルク信仰問答の、ひとつひとつのことを聞く背景に、この場面があるのである。マタイによる福音書だけみておこう
マタイ26:52~54
聖書の言葉が実現するためにと書かれている。しかし、その前に、お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。それは、あっという間にできる。それが父の御旨ならば。しかし、イエス様はそのように願わなかった。
私たちは思わないだろうか。
イエス様、そうしてくれたら良かったのに、と思う。その光景を見たなら、人々はひれ伏しただろうに。
「エリ、エリ、レマサバクタニ」しかし、その言葉を神様は無視された。呪われたものとして死んでいくからである。それは、わたしたちのことを愛されていたからにほかならない。わたしたちは、このイエス様の決意のときに、信仰問答で言われているすべての言葉に、神様の愛そして、イエス様の愛が際立っていることを見ることができるのである。
(2017年9月17日主日礼拝 風間宣夫牧師)