少年イエス(ルカによる福音書 2章41節~52節)

 たくさんのことを同じフレーズで繰り返しお話してきたことがある。たとえば、クリスマス物語は、マルコとヨハネにはない。マルコには、クリスマスも復活も記述されていない。しかし、マタイによる福音書には、クリスマス物語のあと、少年イエスの記述はない。ルカによる福音書は、クリスマス物語のあと、少年イエスについて書かれている。

 ルカによる福音書をふりかえって見てみると、1章4節までは、献呈の言葉である。5節からは、ヨハネの話、ザカリヤとエリザベトなどクリスマスの予兆について。そして、バプテスマのヨハネの話について「幼子は、身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで、荒野にいた」次に、2章からクリスマスの物語になる。そして、21節までで、ひとつのパッケージが終わる。そして、22節以降には、神殿で献げられた話が続き、「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」というパッケージが終わる。そして、今日の2章41節以降の箇所では「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」という言葉で締めくくられる。そして、いよいよ本編の3章1節が始まる。
 本当にコンパクトに最小限の紙に入れていくときに、大事な事だけを書いた。そのときに、この少年イエスの物語を入れておかなければならない、と思ったのである。小さい時から教会に行っていると、イエスの伝記のようなところに出てきたりする。神様の子どもだったのに、知らないこともいっぱいあったのか、と思ったり。イエス様が犬を飼っていたという伝承がある。どんな遊びが好きで、どんな食べ物が好きで、という伝承もある。教会の御言葉の取次というのは、イエス様を味わっていただくことに満ちている。聖餐式を中心とする礼拝の群れである。それは、イエス様を味わうことである。イエス様を味わうときに、少年イエスの物語は非常に重要になる。ルカは、この物語を捨てることはできないと思ったときに、イエス様と私たちとの関係を知るために、この物語を通じて伝えようとしている。今日のイエス様は、12歳である。12歳のイエス様というのは、ただ単に12歳であるというだけではない。女の子は12歳から結婚ができた。成人するころの年齢である。いままでは子どもだったが、12歳になったら、旧約聖書の律法に従って生きる男子として、人間として歩む。
 私もイエスラエルに行かせていただいた。いまも神殿の嘆きの壁の前で同じように12歳の子供たちが、トーラーをあげ、祝福を受けている。律法を守る者として生きていくように決心している。神の子であるイエス様が、30歳でいきなり人間の姿で来るのではなく、わざわざクリスマスを用意して、赤ちゃんとして育ち、お父さんやお母さんから叱られ、学んで人に教えを受ける役割を担われたのである。全能の神の子が、人間と同じような学ぶという道のりを歩まれたのである。子どもだということは、勉強させられたのである。小さいときはわからなかった。神様って習わなきゃだめ?と思う。教会学校の先生は、この少年イエスのところはやりにくかったようである。教会学校に置いてある絵本には、失敗する小さい頃のイエスが出てくる。大事なことは人間が神の子になったのではなく、神の子が人間になられたということなのである。
 律法の規定にしたがって、都にのぼり祝福を受けて帰る。律法に従って生きる決心をした。私達が洗礼を受けるように、イエス様も洗礼を受けた。主に倣いて同じような生き方をしてよいと知る。著者ルカが、この箇所で最も伝えたかったのは、43節以下であっただろう。両親はそれに気づかなかったということである。
 迷子になったのである。両親は、みんなが祭りのときに行って帰ってきたので、わざわざ12歳の子の手を引いていったわけではに。エルサレムからナザレの間、道があった。そうたくさんあるものではないので、決まったところに行く時に間違えようがない。親戚も友達もいる。お兄ちゃんのことは放っておいて、1日分の道のりを行って宿屋でお兄ちゃんがいないことに気が付き、探してまわったのである。
 3日間探したあとに、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしていた。これがイエス様である。

 48節の言葉は、読み方に注意した方がよい。子どもをもって、一度でも子どもを叱りつけた経験のある人なら、こういう風にはならない。お母さん心配していたの!12歳の子どもが3日間も行方知れずなのだから。中学校でこんなことが起ころうものなら、大変なことである。そうやって、心配をしてお母さんが言ったら「どうしてわたしを捜したのですか。」と言ったのである。こんなことを言ったら、頭叩かれる。
 昔からこの聖書の箇所について説教する人はこういう。両親はどこを捜したのか。わたしたちは、主なる神と共におられたということを知っている。容易に察しがつく。屋台のところで焼きとうもろこしを買っているわけはない。両親は、イエスという方がどういうかたになるかということを聞かされていた。マリアもヨセフも日常生活の中で、このイエス様を我が子として生きていた。この方が誰であるかを聞かされていた。しかしイエスと共に生きているうちに、それは、もはや感動でも喜びでもなく、イエス様と一緒に生きているうちに、イエスの言っていることがわからなくなった。
 両親は、イエス様が誰であるか聞かされていた。それにもかかわらず、彼はイスラエルの習慣にしたがって、ちゃんとエルサレムに行った。親類や知人の間を捜し回ったのである。親類の中を捜したのである。どういう風に感じたかというと、驚いたのである。「わたしは自分の父の家にいただけだ」と言ったのである。これをルカは伝えたいと願ったのである。私達も、イエス様が誰であるかを聞かされている。主と共に日常生活を送っている。愚痴も文句も言いながら、言い訳をしながら、日々、主と共に生きている。主がどこにいるのかわからなくなるときに、人に相談に行ったりするのである。この両親は、エルサレムの神殿に行かなければならなかったのに、イエス様がエルサレムの神殿にいることに驚いてしまうのである。私たちと共に生きて私たちに仕えるべき存在だと思い違いをしてしまうのである。
 マリアとヨセフには、イエスの言葉の意味がわからなかった。しかし、イエスは一緒にくだっていき、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。このように勘違いしてしまうマリアとヨセフと共に帰ったのである。母は、わからなかったが、こんなことがあったということを味わっておこうと、このことを心に収めたのである。心に納めておくべき出来事として、ルカはこの物語を福音書に記した。牧師が説教をして、何が大事かというメッセージも大切だが、このことを心に納めて深く味わうことが大切なのである。心に納めておくこと、これがとても大事である。
 主なる神が私たちを信頼してくださっていることを味わっていく。それがとても大切なのである。
(2012年1月22日 釜土達雄牧師)

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