主があなたと共におられる1(ルカによる福音書 1章26節~38節)

 クリスマスのたびごとに、読み継がれている聖書の箇所である。マリアの信仰として、この一言はとても有名である。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」今日は、この言葉に目を留めるよりも、神様が大いなるご計画の中で、この出来事を備えておられたことを見ていきたい。

 ガブリエルが遣わされたのは、大切なメッセージを伝えるためであった。天使ガブリエルがこの言葉を伝えるためにマリアの元に来た。独裁的な世界をつくっておられるのではなく、神の会議を持っていると考えられていた。神様がいて、天使が十二人いる。そこに集いながら、相談しつつ事柄を決していると考えられていた。この真中に立っておられるのは神様。その右に立っているのがガブリエルである。左に座っているのは、天使サタンである。神様に対立する者として描かれることも多いが、サタンは天使の一人である。神様がすべてのものをつくり、支配しておられるのだから、神様の支配のないところで神と対立することはあり得ない。左に座っているのはサタン。右に座っているのはガブリエルである。神様の命令をもっとも忠実に行う、神の右の手、ガブリエルである。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」これほど明確なことはなかった。この乙女マリアのお腹の中にイエスがいたからである。主が共におられるということを最も具体的に体感できたのは、彼女である。私達が「主が共におられる」ということを言っても、その身体の中にいるわけでもなく、一緒に食事をしたわけでもない。しかし、マリアは、確実に主と共にいた。主と共にいるということを具体的に体験、経験してきた。それは、多くの方々が、あこがれた出来事でもあった。
 神様が人々の歴史に介入してきたところを思い起こしてみたい。
 
 創世記12:1~3

 神様がアブラハムの前に現れて、歴史に介入してきたのは、こういう目的があった。「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」
アブラハムを祝福するのは、地上の支族はすべて、アブラハムによって祝福に入るからであった。つまり、主があなたと共にいてくださるようになるためであった。それこそ、神様の願いであり、目的であった。神様がずっと歴史の中で約束してきた出来事だったのである。マリアにとって大いなる喜びとなるべき出来事であった。しかし、マリアはそんなことは考えていなかった。主があなたと共におられる、と言っても、神様が壮大なスケールでご計画をなさっているとは思わない。

 聖書の知識なので、あまりそういうことにこだわる必要はないが、このときにイエスの父はだいたい40歳くらいであったと考えられている。マリアの年齢は、成人を迎えるのが12歳であり、その後すぐに婚約をするのが通例であった。13歳か14歳だと考えられる。この年齢差は当時としては、珍しいものではなかった。婚約期間が2~3年ほどあり、子どもを産むのが15~6歳くらい。あなたの親類エリザベトと書いてあるように、マリアの叔母さんであった。マリアが生まれたときに祝福を与えたのは、エリザベトの夫であると考えられている。つまりマリアは、比較的ちゃんと聖書の知識を得る立場にあった女の子であると考えて良い。それにもかかわらず、「この挨拶は何のことか」と考えこむのである。

 自分が子どもを持つということに意識が囚われていて、神様のご計画には目は留められていない。これはいたし方のないことである。ところがガブリエルは、そのように理解をしているかどうかは関係なく、話を進める。
 マリアは何を言われていたのかよくわかっていない。にもかかわらず、ルカによる福音書に書かれているのである。忠実に調べて、取材をして書いたルカに書かれている。つまり、マリアは覚えていたのである。そのとき、何を言われていたのか意味が分からなかったが、言われていた中身は覚えていたのである。
 すなわち、私たちの主、イエスキリストがどのような方として、私たちの前に立つかということを、よくよく覚えていたのである。覚えていたからこそ、このことをあちこちで語ることができたのである。同じ話は、別のところにもある。このあと、シメオンという人が出てくる。ヨセフとマリアが、イエス様を神殿に連れて行く。

 ルカ2:28~38

 これらのことをすべて、マリアは見ていて、覚えているのである。ところが、そのマリアが、イエス様が公の生涯を歩み始めるようになると、このようになる。

 ルカ8:19~21 マルコ3:31~35

 冷たい関係になっている。断絶しているように見える。マリアは、イエス様が公の生涯を歩み始めたときに、その親族と共に、イエス様がおかしくなったと思ってしまったのである。家族を捨てて、御言葉を人々に語り始めたときに、なぜ家の仕事を手伝わないのかと思ってしまったのである。聞くべき預言は聞いていた。主が共におられることも知っていた。しかし、マリアはいつしか、イエス様のやっていることが分からなくなってしまった。そして、兄弟たちと共に、イエスを家に連れ戻すことに全力を注ぐ。そのマリアは、主の十字架まで共にいることになる。

ヨハネ19:25~27

マリアは祝福を受ける。しかし、悩みと苦しみを受けることになる。この子をお腹に抱いたときには、想像もしなかったような人生が待っていく。人気を博した自分の息子の生涯の終わりを見たのは十字架だったのである。それが、マリアの人生であった。その生涯をかけて主と共に生きることになる。主があなたと共におられる、と言われて、確かに主と共に人生を生きることになる。お宮参りに行き、不吉な話ばかりである。それをマリアはしっかりと受け止めながら、記憶にとどめていた。ところが、30歳になったときに、公の生涯を歩み始める。家族を放置していくイエス。そのようなときに、自分の生んだ子供たちと共に、兄イエスを連れ戻しにいくが、追い返されるのである。それにもかかわらず、そのイエスと共に連れ立って行ったのである。エルサレムに入っていく。そして、急に捕まるのである。一人ぼっちになっている我が子を見る。わが子に十字架刑が告げられるのを見る。鞭打たれるのを見るのである。彼女は逃げなかった。十字架を背負っていくイエスについて行ったのである。
 イエス様がお腹に来たときに、自分の人生を振り返りながら、あの時に言われたことを思い出して語っているのである。主の祝福が、歴史の預言の中で、自分に与えられている。歴史の中で語っていた祝福を実体験できたのである。主が共におられるというのは、この地上を平和に生きていくこととは、違う。主が共におられるというのは、平穏に生きていくということとは違うのである。恐れることはない。あなたは、神から恵みをいただいた、という言葉に象徴される。ひとりぼっちだと思う、なんでこんな目に合わなければいけないのか、と思う時がある。そんなときに、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた、と言われた言葉を思い起こす。「おめでとう、主が、あなたと共におられるからだ」そう言われたマリアは、苦しみ、悲しみ、困難、疑いの生涯。それこそ、マリアが生涯を通して体感してきたことだった。
 主が共にいてくださったからである。疑うマリアに対して、神にできないことは何一つない。と言われて「わたしは主のはしためです。」という、神の全能を信じる。
 この地上が安泰でないことは知っている。幸せなことばかりでないことは知っている。なんで?と思うことはよくある。けれど、すべてのことを知り、支配しているのは神様である。その神様が私と共にいるということを、すべてのことを委ねて、任せてみよう。神様、きっと何とかしてくださる。
 富来伝道所にいた神崎のおじいちゃんが、漁に行く時に、「神様、今日も頼んまっさ」と言って出かけていった。素朴な信仰とは、そんなものである。天使ガブリエルが、マリアの前に立っていたのは、マリアがそのような素朴な信仰で人生を歩んでいたからである。私たちに至るまでの救いをつくったのである。このマリアの信仰を私たちの信仰としたい。
(2011年11月6日 釜土達雄牧師)

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