歴史を通して語られる神(使徒言行録13:13~25)

知識として持っておきたい。使徒言行録13:14から、礼拝についてみておく。私たちは、毎週のように、このように七尾教会で礼拝を守っている。日曜日に礼拝を守っている。そういうものだろう、ということを思っているかもしれない。ほかの教会の礼拝に出たことのある人は、教会ごとに特徴や違いがある。使っている讃美歌や聖書でも、説教者でも。この先生と交わりながら御言葉を聞いていくとよく分かるというタイプの先生もいる。短いフレーズで取次ぎをする大久保先生、わかりやすい。その前の山倉先生は、最初から、ずっと聞いていってもよく分からない。しかし、みんなが分かったような顔をして帰る。要は、神様は愛しているという話でまとめる。奥様が素敵な方で、サラダを「神様のてづくり」と言っていたのが印象的である。鷲山先生の説教は名説教である。力強く、立ち姿も凛々しい。旧海軍の潜水艦乗りであった。日本基督教団の中でも、いろんなタイプがある。カトリックも聖公会も別世界である。では、この時代はどうだったのか。
 いま教会は日曜日の朝に礼拝をまもっている。日本のカレンダーで日曜日が休みなのは、キリスト暦を取り入れたからである。これは、明治時代にフルベッキという人物が努力した。政府は、3日働いて1日休みというカレンダーにしようとしていた。多くの藩でそれが採用されていたからである。しかし、フルベッキは6日働いて、7日目に休むキリスト暦を強く推した。当時の、政府の高官のキリスト者たちも徹底抗戦したのである。このときは、安息日は土曜日である。いま、安息日を土曜日としているのは、ユダヤ教だけである。
 この礼拝の記述を見ると、説教者がいない。招詞にあたるものが読まれる。いきなり、指名される。準備をしての説教ではない。このときには、パウロやバルナバがいた。会堂長が、指名したのである。そう、彼らはキリスト教の教会に行っているのではない。当時、教会は産声をあげたばかりであった。日曜日の朝にれいはいを守っていたわけではない。ユダヤ教のシナゴーグの中で、礼拝をささげていたのである。それが、トルコのアンティオキアでも行われていた。このやり方は、主イエスキリストが、御言葉を述べ始められてすぐに、ナザレに戻ってきたときに同じような形態がとられているのである。

ルカ4:16~21

イエス様が礼拝を守られたのは、安息日であった。聖書というのは、シナゴーグの中にあって、巻物の形態であった。そして、20節にあるように、イエス様は会堂の席に座ったまま、語られたのである。パウロは立って語っている。
 それが聖書に書かれているのは、珍しかったからである。イエス様が最もよく語っていたのは、会堂である。パウロが御言葉を述べ伝えているのも、会堂が中心だったのである。とりつがれるときに、そこで公に福音について語られたのである。では、パウロが語った中身は何だったのであろうか。
使徒言行録 13:16~25

途中で、わかったわかったという感じになる。エジプトに行ったこと、出エジプトのこと、志士の歴史、統一王国がつくられたこと、最初の王がサウルであったこと。
新約聖書しか配らない団体もある。この時代の聖書は旧約聖書である。イエス様の活動について新約聖書は記すわけなので、このときに出てくるイエス様が読んでいるのが旧約聖書である。英語で旧約聖書とは、Old Testamentという。新約聖書は、New Testamentどっちも聖書とは言わない。旧約聖書の土台なき、新約聖書は意味がない。旧約聖書の歴史は、イエスキリストを生まれさせるためだけにあったのではない。今日の聖書を取り次ぐためにもっとも大事な言葉を引用する。

ヨハネ5:39

牧師になるときには、補教師としての伝道師の試験がある。その後、正教師になるための試験がある。その正教師試験のときに出たのが、この個所であった。旧約聖書はどのようなものだと語っているのかを書きなさい。分からなかったと言って帰ってきた人もいた。アダムとエバの物語、ソドムとゴモラの物語、ダビデ物語、ソロモン、サウル、聖書をどこで切ったとしても、主イエスキリストを証する。どのように理解をして、どのようなものと思っておられるのか。神様がこの世界をいかに愛しておられるかということが、すべての物語の中にも、たくさん盛り込まれている。聖書は、どこを切っても、神様が私たちを愛してくださっている物語に満ちている。裁きであって愛ではないではないか。聖書の中に営々と出てくる。イエスキリストを生まれさせるためだけにイスラエルがあるのではない。イスラエルの歴史のなかで、神様の愛があふれている。そのことを書こうと思ったら、答案用紙が足りなくなるくらいであった。

ヨハネ3:16~17

「聖書はわたしについて証しをするものだ。」「神はその一人子をお与えになったほどに世を愛された」
自分たちが、何かをすれば救われると思って、聖書を研究していた人たちが山のようにいた。しかし、主が愛されたのは、わたしたち。神があなたを愛されているということの証が、十字架と復活である、とイスラエルの人々に語っているのである。聖書とは、神様のメッセージである。人間が考えたことではない。歴史を通して私たちに語ってくださっているメッセージである。歴史の主は、神ご自身なのである。
(2016年9月11日主日礼拝 釜土達雄牧師)

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