よく分かっていただきたい(ルカによる福音書 1章1節~4節)
本日からルカによる福音書の連続講解がはじまる。神様が主導権を持っておられる。神様の方が歴史の中に介入してこられて、神様の思いを語られる。これが、聖書の信仰である。ある詩人が、富士山に登るには、あちこちから登る路があるが、頂上はひとつ。いろんな信仰はあるが、神への信仰とは、どの路を通っても、ひとつの神へと至ると言った。多くの日本人は、なるほど、と言ってきた。しかし、富士山だと思って歩いて行ったら白山だったらどうするか。人が神を求めるという点では同じである。どの道をとおっても、神に至る路は同じだと語るのではなく、神様の方が地上に降りてこられて、私はここにいる、とおっしゃる。神様の方が私たちに向かって語りかけてこられる。それが、旧約聖書であった。歴史的であり、具体的である。実際に、その場所にある。ベツレヘムの町は今でも存在している。いまから2000年も前のことではあるが、小さな村があり、この場所であろうと言われている。現実に、そこに教会が立っている。
福音書は4つある。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネである。最初に書かれたのはマルコによる福音書である。それを土台にして、マタイは、ユダヤ人のための福音書を書いた。マルコによる福音書を土台にして、ローマのテオピロに対して書いた福音書がある。著者は、お医者さんであった。それが、ルカによる福音書である。自分たちのグループの中だけにある伝承だけで書かれたのがヨハネによる福音書である。それぞれの視点がある。それらが、どういう視点であったか。ルカによる福音書は、ひとつの目標を持って書かれている。それが、本日の箇所である。
ルカによる福音書 1:3~4
ルカという人の福音書の書き方は、自らの思いや願いとは距離がある。すべてのことをはじめから詳しく調べるという点にある。旧約聖書の言葉をたくさん引用して、彼らを説得しようとしているのが、マタイによる福音書である。私がどう思うかではなく、その事柄が正しいことなのか、どういう流れの中で起こったのか、詳しく聞いて調べて、この地域のことについてご存じないテオフィロ様に、順序正しく書いて、報告書として献呈したものである。ルカによる福音書を書いたルカが、テオフィロに向けて書いた報告書は、もうひとつある。
使徒言行録 1:1~2
こうやって、第二巻がはじまる。ルカは、福音書を書いたあと、第二巻を書いている。それが、使徒言行録である。調査報告書だということを知って読んだ方がよい。なるべく客観的に書いているということを知った方がよい。これと、全く対角線上にあるのがヨハネによる福音書である。私は、こう思う。こうである。あなたが何を言おうとも。ルカによる福音書は、事実に忠実に語るので、結論がわかりにくいという特徴もある。
ルカが福音書を書いたのは、出来事が起こった順番を記録するためではなかった。それが、1~2節そして、4節に書かれている。
わたしたちの間で実現した事柄について、多くの人が書こうとしているが、私は時系列に並べて報告したい、と言っている。その理由は、「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい」からである。
つまり、このテオフィロはキリスト者だということである。あるいは、求道者かもしれない。お受けになった教えについて、あの使徒たちが言っていることが、間違いなくそうであるということを調査している。ここで大切になるのが、お受けになった教えとは何か、ということである。私たちの間で実現した事柄とは何か、ということである。その内容をよくわかってほしいから、ルカによる福音書を書いている。だから、大事なのは「お受けになった教え」であり「実現した事柄」である。私達が読んでいくのは、私たちの間で実現し、お受けになった教えについて、である。
このお受けになった教えについて、使徒言行録(第二巻)になると、これらをまとめて書いているところがある。それは、ペテロの説教である。ペンテコステのあと、ペテロが人々に向かって語っている説教がある。
使徒言行録 2:22~24
これが、私達の間で実現した事柄である。これが、伝えた事柄であり、お受けになった教えである。私たちの主イエスキリストの十字架と復活である。
使徒言行録 2:36~38
これが、メッセージである。ルカが書こうとしたその中身すべてである。十字架と復活、そして永遠の命への招き。それが、神様のご計画である。主イエスキリストが地上に送られ、地上を歩き、十字架につけられて、復活し、ペンテコステによって聖霊が送られて教会ができた。
命のことについて聞くときは、注意して聞かなければいけない。死んで、天国に行くのか地獄に行くのか。永遠の命の話。教会が語り続けているので、なんとなく知っている。死んだ時に裁きがあることも。聖書が語っているのは、その命の問題である。永遠の命の問題である。忘れてはならない。聖書が語っているのは、永遠の命のことである。十字架についたイエスが、死んだ後、生き返られたということである。教会が語っているのは、こういうことである。私たちは、この地上に生を受けているときに、すべてのことが死によって終わることを知っている。死が、どれほどのことであるかを知っている。どんなに大きな会社をつくっても、ちゃんと後継者がいなければ、その努力は無駄になることを知っている。どんなに大事にしてきた田んぼや畑があっても、それを受け継ぐ人がいなければ、使い物にならなくなる。自分がどんなに愛しているものだといって、自分の生涯をかけたものだと思っても、自分が死んだ後に、それを継承してくれるものがいなければ、虚しいものとなる。
病院では、最後に死んでいく。最後は集中治療室に入り、最後に家族が立ち会えることが少なくなっている。命を助けるために、全力をつくすので、それは敗北である。
先日、NHKのテレビを見ていたら、日野原先生の特集をしていた。どうせ、人は死ぬのだから、こういうのをつけていなくてもよい、と言って酸素マスクを取ったりしていた。日野原先生は、多摩川平安教会の教会員である。一度、伝道集会で行ったことがあるが、聖歌隊の中に、日野原先生がいて歌っていた。聖路加とは、セント・ルカである。このルカによる福音書を書いたルカのことである。あのルカが医者だったから、聖路加病院とつけたのである。死について、とてもおおらかに語られるのは、永遠の命を信じているからである。死によってすべてが終わるのではない、ということを知っていなければ。日野原先生は、若い頃に16歳の少女の担当医になって、延命治療を施したことを後悔して、死がすべての敗北だと思っているなら、生きる喜びを語るのは、至難の業であると感じた。しかし、私たちの命をつくってくださったのは、神様である。人生をお与えになったのは、神である。あの家族のもとに生まれさせてくださったのは、神様である。死んでしまえば終わりになる人生ではない。愛するすべてのものを失ってしまうことはあり得ない。だから、ルカは一生懸命語った。あなたの命には希望がある。いままでは実現していなかったが、私たちの間で実現したことについて、報告したいと。お受けになった教えが、確実であるということを知ってほしい。永遠の命というものに、神様が約束を与えて下さった。それについて、今から書きますから、よく読んでください、と。
ルカは物語として書いた。パウロは、これをもっとストレートに書いている。自己体験として、書いている。
コリントの信徒への手紙1 15:1~11
もういちど、3節以降を読む。「最も大切なこととして、わたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファ(ペテロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。」
これが、実現したことである。
コリントの信徒への手紙1 15:12~19
本当にそうである。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなものです。」
人はだれも死んでいく。死によって、閉ざされていく。イエス様の言っていることは、なかなかよいことだし、そのように私も生きてみたいという人は多くいる。しかし、そういう人は、最も惨めな人たちである。永遠の命を与えるためであった。その事実が、私達の喜びのすべてであった。私達が永遠の命の中に生きるということが、喜びのすべてではない。神様が、私たちの命を慈しんでくださっている、慈しみの方であること、私たちの責任をとってくださる方であること。私たちの命が保証されているがゆえに、自分の存在、すべてをかけて仕えても、なんら無駄なことはないということである。永遠の命を保証してくださる。すごいことである。それを、ルカは、これからメッセージとして語りはじめる。連続講解説教は、3年かかる。ゆっくり読んでいく。どれほど素敵なメッセージが込められているか。じっくり、味わいながら読んでいきたい。
(2011年10月16日 釜土達雄牧師)