あなたの救いを見た(ルカによる福音書 2章22節~21節)
先週、わたしたちはイエスの父と母が、イスラエルの慣習にしたがって、生きていたことを聞いた。イエス様は、長男坊として生まれた。神の子であるが、この地上で人間として歩んでくださった。律法の規定通り、割礼を受けて、のちに洗礼を受けられたのである。イエス様が15歳くらいのときにヨセフが亡くなったと言われていた。貧しいながらもこの地上で苦労をしてお金を得て、生活を支えていった。それが、主イエスの姿である。全能の神の一人子イエス様であったが、奇跡を起こしてお金を得ていたのでも、パンを得ていたのではなく、労力によってお金を得て、家族を養っていたのである。父なる神の御心をみなければならない。この地上を歩まれた人間イエスを神の子だ、と言っているのである。神の一人子がこの地上に降りてきてくださって、その方が私たちと同じようなこの地上を歩いてくださった。それを受肉という。人間を神の子にするのではない。神の子が人間として歩んでくださったのである。
ほんとうに頼りない若きマリアとヨセフにこの子の命をすべて預けていた。神様は、マリアとヨセフに任せられたのである。神の子が地上を歩んでおられるという事実をしっかりと味わっておくことが必要である。まだ小さいそのときに、エルサレムの神殿に行ったのである。神様の子どもがおしめを取り替えてもらったのだろうな、おっぱいを飲ませてもらっていたのだろう、ということを思うと、猛烈な親しみを感じる。ここでは、イエス様は説教をしていない、祈ってもおられない。弟子もいないのである。
シメオンが登場する。聖書はこう語る。この人は正しい人であった。信仰が篤かった。イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。聖霊が彼にとどまっていた。信仰によって、自分の楽しみを求めた人ではなかった。イスラエルが慰められるのを待ち望んでいたのである。自分の楽しみのために神殿に行っていたのではない。そして、主が使わすメシアに会うまでは死なないと言われていた。逆に言うならば、主が遣わす救い主に会えば、死ぬと伝えられていた。救い主に会うことを待っていたのか、嫌がっていたのか。
ルカ 2:27~
救い主の到来は、彼の死を意味していた。イスラエルが慰められるのを待ち望む生涯であった。それは、救い主に会えるということであり、彼は死ぬということであった。ルカは伝える。
「酒よ、今こそあなたは、お言葉どおりこのしもべを安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」
彼は、わたしたちの主イエスキリストを見るということを憧れていた。救い主と出会うことを憧れていた。そのイエス様と出会うということをしたときに、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこのしもべを安らかに去らせてくださいます」と言ったのである。
わたしは教会で長くいて、教会学校を休むということはあまりなかった。こんな風に表現ができるほどの方が、教会のあちこちにいたとは思わない。そういう感謝の仕方で聖餐を受ける人はあまりいなかった。しかし、シメオンはそのように語ったのである。
女預言者のアンナの話がそのあとに出てきた。若いころとはどのくらいか。マリアが婚約して12歳、遅くても15歳。ということは、夫をなくしたのは約20歳とか22歳ということになる。そこから84歳になるまで、独身でいた。子どもがいたかは書かれていない。昼も夜に神に仕えるとはどういうことか。断食したり祈ったりしていた。神殿でなければ祈ることはできないこともない。アンナのことをよく見たらよい。教会に仕えるということは、掃除をしたり、長老として、執事として、仕えることだけでない。そういうことは、元気な人がやればよい。一番大事な奉仕は「祈り」である。神様がそうしようとお決めになることである。説得をきいてくださるのは、祈りによってのみである。
正しく御言葉がとりつがれるように。教会がつづくように若い人を加えてくださるように。そう祈ることは、もっとも重要な務めである。教会の存続とは、聖霊の業であって人間の業ではない。大事なポイントである。
アンナの人生がある。シメオンの人生がある。それぞれの人生を経ていって「救いを見た」と言った。この赤ちゃんにすべての救いがあった。天使は、こう告げたのである。
ルカ2:10~12
救いのしるしは、この赤ちゃんの存在のみである。シメオンは、その赤ちゃんが少し大きくなったところを抱き寄せてこう言った「私はあなたの救いを見た」と。アンナは、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々に、この幼子のことを話したのである。
キリスト教とは、キリストの教えだと思っている。山上の説教の好きな人は山のようにいる。愛唱聖句は何かと聞かれる。そうやって、キリストの教えというものをしっかり観ていき、あの言葉が好き、イエス様がこう言ったのが好き、と言う。悪いとはいわない。しかし、間違えてはならない。イエス様がなんと語られたかに救いがあるのではない。嵐を沈めた所に救いがあるのではない。「あなたがたは飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」何のしるしか。神様が私たちを愛してくださる。イエスキリストが証拠なのである。神様が私たちを愛してくださっているということの証拠、あかしなのである。注目すべき言葉を覚えておきたい。
ヨハネ5:39
ここで聖書というのは、旧約聖書である。ヨブ記のどこにイエスキリストを証しする言葉があるか。詩篇のどこにあるか。ホセア書のどこにあるか。しかし、イエス様は「聖書は」と語るのである。聖書はどこを切っても、神が忍耐して、私達を愛して、必ず救い主を送るというメッセージに満ちているのである。どんなことがあっても私たちを見捨てないというメッセージに満ちているのである。神がこの人達を愛しているという愛のメッセージが込められているのである。神は忍耐をしてくださって、あのイスラエルを愛してくださった。そこに私たちを見捨てないというメッセージである。聖書は座右の銘によって成り立っているのではない。愛のメッセージに満ちているのである。
神様がどんなことがあってもあなたがたを見捨てない。そういうメッセージに満ちている。全能の父なる神様が、我が子イエスの命と、釜土達雄の一人の人間を比べて、その苦しみに味合わせるわけにはいけないのだ、と言ってくださったのが、聖書のメッセージなのである。神様が私たちを愛してくださっているというのは、そういうことである。シメオンは救いを見た、と言った。死んでもかまわないと思えるほどの神の御愛を見ることができたのである。生きているときに共にいてくださるという約束をくださった神様が、生きている時も、死ぬときも、死んでいる時も、復活のときも共にいてくださる。シメオンの喜びの感謝の言葉である。イエス様を仰ぐということは、この喜びに生きるということである。最初は、イエス様の言葉に打たれるということでも結構。しかし、本当の喜びは神の愛に出会うということなのである。神様に全部お委ねする力を得ることができる。シメオンがその喜びを、アンナの紆余曲折の人生は、イエス様と出会ったことに喜びを見出したのである。主と共に歩むことが、すべての幸いだったのである。かれらは、山上の説教も聞いていないが、本当に安らかに終わりのときを迎えた。わたしたちもかくありたい。
(2012年1月8日 釜土達雄牧師)