律法の役割(ローマの信徒への手紙7章7節~14節)
今日の聖書の箇所は、律法と私たちの関係を明らかにする箇所である。律法によらなければ、私たちは罪を知らなかった。神様ご自身がイスラエルに与えられた律法。その最たるものは十戒である。出エジプト記の20章には、十戒がある。これが憲法にあたるもので、そのあとに基本法にあたる、22節以下に英々と出てくる。私たちが聞くべき、神の戒めであった。
出エジプト記 20:1~17
これがまさに十戒であった。
出エジプト記 20:18~21
そして、契約の書が続いていく。神様は、イスラエルに対して、神として何が望みであるかを英々と語られた。いかなる像も造ってはならない。いかなるものの形も造ってはならない。この世で、どんなものを造ったとしても、それは神ではない。私たちが目で見えたり、手に触れたりすることができない。見えざる神である。神の像をつくって、これが神だと言ったりしてはいけない。このあと、金の子牛をつくって、これが神であると言った。神様はそれを見てお怒りになり、十戒はそこで一度壊れてしまう。私たちは偶像を作り出してしまう。神様のこれらの言葉がなかったら、神を自分の心の中で作り上げてしまう。教会には、キリストの像もマリアの像もない。何らかの像を置いて、人々の関心を引くことができたかもしれない。しかし、私たちがそれをしないのは、律法によって何をしてはならないかをよくよく知らされていたからである。
律法は、律法があるから、私たちのやっていることと神の願いがどれほどかけ離れているかを知ることができる。神様が私たちに語って下さらなったら、それらを決して知ることはできなかった。イエス様が、律法学者から、律法の中で最も重要な掟を聞かれる場面がある。
マルコ12:28~31
律法は、なんという言葉に収れんされるのか。第一の掟は何かと聞いたが、イエス様は2つの律法を引用された。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」そして「隣人を自分のように愛しなさい」
おそらく、イエス様はこれらの話をいろんなところでしたのであろう。それが伺われる話が、ルカにもこのような話が書かれている。
ルカ10:25~28
律法学者は、イエス様を試そうとして言った。そしてイエス様は、律法には何と書いてあるかと言われて、イエス様がいつも話していたこの言葉をそのまま答えている。そして、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれか」」と問うた。律法によって、自分の罪が明らかになる。自分の罪を知る。ところが、かれは罪を知るのではなく、誰にそれをすればいいのですか、と聞いたのである。
エルサレムからエリコに向かっていくときに、ある人が追いはぎに遭った。神様から召された祭司も、神様に仕えるレビ人も避けて通った。3番目に通ったのは、イスラエルと仲の悪いサマリア人であった。
この物語がとても大好きである。この善きサマリア人が、自分の生活を捨てて、看護師になったわけでもなく、医者になったわけでもなかった。自分にできることをした。この人を介抱してください。このまま仕事を続けたのである。遠回りをしなかった。見捨てなかっただけである。そのさりげないやさしさだけで、この三人の中で誰が隣人になったと思うか。簡単に答える。その人を助けた人です、と答える。本当に覚えるべき律法の教えがこのように書かれている。「行ってあなたも同じようにしなさい」どこに行きますか。このたとえ話はフィクションである。半殺しの目にあった。隣人になること。そういうことになったら、見捨ててはいけませんよ、と言ったのではない。この話を聞いたあなたは、行って同じようにしなさい、と言ったのである。どこへ行くのか。どこでこれをやるのか。遣わされているのである。よく聞いて知っている。神の心を聞き、神から遣わされている。それをわが心として、それぞれの持ち場立ち場に遣わされて行っている。あなたが遣わされている場所に行って、あなたも同じようにしなさい、と。
できないのである。自分の仕事があるのである。この祭司と同じように、わかっているんだけど遠回りせざるを得ないことがある。道の向こう側に。電話くらいはしておいてあげようか。遠回りをしていって向こう側を通っていく。前の祭司もそうしたのだから、関わっていたら大変である。目の前のことがたくさんある。だから、自分を正当化したくなる。この律法の専門家のように。律法には、何と書いてあるか。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。言ってあなたも同じようにしなさい。そんな時間はない。そんなことをやっていたら、私の仕事ができない。パウロがローマの信徒への手紙で語っているのは、そういうことである。律法によらなければ、わたしは罪を知らなかった。大切なのは、やらなければいけないこと、願いはわかっているが、それにかかわっていてばかりはできないという現実の自分の罪深さである。正当な理由は山のように存在する。できないと思う。できないのだから、できなくてよいのではないかと開き直るのではない。律法によらなければ、知らなかった。
律法がむさぼるなと言わなければ、むさぼりを知らなった。自分が愛から遠い存在であることを知らなかった。見捨ててはならないといわなかったら、自分が見捨てる存在だと知らなかった。何を私たちに伝えているのか。それをしなければならないのだ、ということではなく、あなたが神の願いから本質的には遠いということを伝えているのである。
ローマ7:9~13
なんと難しい言葉であろうか。罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。
律法が私たちを断罪するかというと、いかに神様の願いから遠いかということを自覚させるためである。ダメな人間だと断罪するためではなく、だから神様から許していただく神の愛が必要なのだとわかるためである。律法で救われるならば、悔い改めのバプテスマも主の十字架も必要ない。私たちは、隣人のところに遣わされて行っても、それができない。落ち込ませることが目的ではない。神様の前で悔い改めて、神様にごめんなさいを言って許していただくため。だから、律法は私たちを徹底的に断罪するのである。よきサマリア人のたとえを聞いた律法の専門家のように、自分を正当化する必要はない。どのみち、わたしたちは弱い存在である。十字架と復活があるから、そうであるがゆえに、神様の前で生きることが許されている。律法は悪いものではなく、善いものだ、とパウロが語り続けているのは、そういうことなのである。
ローマ7:11~12
律法も聖なるもの、掟も聖なるもので正しいものであったがゆえに、私を殺す、断罪するものとなる。誰の目から見ても明らかに、善いものを通してわたしに死をもたらした。聖なるものであるから、イエス様の十字架と復活に目をおきなさいという導きの光なのだ、と。律法に書いてあるのだから、やらなければいけないと落ち込む。イエス様は、善きサマリア人のようにやりなさい、といわれて、落ち込んだ律法学者のためにも、その旅の終わりに十字架についてくださったのである。私たちも、同じように救われているものであるということを忘れてはいけない。
(2018年4月22日 主日礼拝 釜土達雄牧師)