主に献げるために(ルカによる福音書 2章22節~21節)
一年の最初を主の日の礼拝として守ることができることを感謝したい。なぜ、この日が元旦であるのかを多くの人は知らない。先週、わたしたちは25日にクリスマス礼拝を守った。クリスマスは1週間祝う習わしであったので、そのあと心機一転、新しい年とした。古い教会が暦を定めた時、イエスキリストの誕生から数えて暦を定めた。もっとも、後ほど計算間違えがわかり、イエスの誕生はBC6年ともBC4年とも言われている。いずれにしても、この暦がキリストの誕生から数えていることは間違いない。わたしたちの暦は、キリスト暦である。
今日、見ておきたいのは若い夫婦である当時の生活習慣に忠実にしたがって行動していたということである。
聖書の律法にしたがって、忠実にそれらを行った。シメオンに会ったのは、そのときである。わたしたちの主イエスキリストに割礼が必要であったのか、という人もいる。割礼とはなにかという点については、旧約聖書を見ておく必要がある。
創世記17:1~14
イスラエルの男子は、割礼を受けなければいけなかった。神様の祝福を身に帯びるためである。神様がアブラハムとその子孫の神となるということ。神様の祝福を身に帯びるためである。男の子たちは、おしっこをするために神の契約の民であることを思い起こすように教えられたのである。イエスの父となったヨセフと母となったマリアは、8日たって、割礼を施す日に、この子をイエスと名付けた。マリアとヨセフは旧約聖書に忠実な存在であったのである。22節には、清めの期間が過ぎた時、と書かれている。
レビ記12:1~8
古い規定である。このように定められていた。主イエスキリストに割礼が必要だったのか。マリアが汚れていたのかを問う人もいる。しかし、わたしたちはここに注目しておきたい。神から役割を担うことを求められたイエスの両親は、旧約聖書の規定に忠実に生きていたのである。
もうひとつ、見ておきたい。長子を献げるという規定である。
出エジプト13:1~2
これは、あの過ぎ越しの祭りの規定の基本となった、神の軍勢がエジプトの軍勢の前に降りてこられて、神の言葉を聞いて行わなかった家の長子をすべて殺した。過ぎ越しの犠牲を捧げた家の前は、神の軍勢は過ぎ越していった。これが、起こりになった。すべての初子を聖別してわたしに捧げよ。男の子、女の子関わらず、神様はそうおっしゃった。だから、マリアとヨセフは、イエスを主に献げるために神殿にいったのである。わたしたちの主は、いったいどのような方として生まれたかを知っていたにもかかわらず、旧約聖書の教えにしたがって、忠実に生きていた。神の子として扱ったのではなく、ふつうにイスラエルに生まれた一人の男の子として育てられた。
ヘブライ人への手紙2:17~18
思い出して欲しい。バプテスマのヨハネから洗礼を受けたのが、イエスキリストである。悔い改めのバプテスマを、イエス様は必要だったのだろうか。神様から祝福を受けているということを体に刻まなければ、主の祝福を思い出せないのだろうか。出産をしたからといって清めの期間をもたなければいけないとは教わっていない。主イエスキリストによってなされること以外は、すべてのことは、十字架と復活だけで充分であることを知らされている。だから、旧約聖書の時代に戻ることはない。しかし、それをなして下さった方は、一人の人間であるという事実をしっかりと受け止めなければならなかったがゆえに、誠に私たちと、当時の人々と同じように割礼も清めも、神殿奉献もしたのである。神の子であると同時に真の人として地上を歩まれた事実を明快に証するものである。地上の中にあるたくさんの風習、因習というものがある。そのものを私たちは軽蔑するのではなく、それらに忠実に生きる人たちを憐れむのでもなく、祝福していく者にならねばならない。
私も若い時は、キリスト暦の正月に初詣に行っていいのか。石川県宗教連盟で、よく神社の方のとなりに座った。それで大丈夫なのかと聞いた。除夜の鐘も旧暦でやらなくてよいかを聞いたこともある。お寺が葬式をして、神社が結婚式をするようになったのは、明治6年以降である。キリシタン禁制の高札が撤去されたときである。結婚式も葬式もやっている教会が出てくるので、神社も寺も、そういった儀式をやるように通達が出たのである。そういうことを言って、皮肉を言っていた。
そこまで目くじら立てることもないのではないか。神様がすべてのものをお許しになっておられるのだから。当時のマリアもヨセフも、それらは意味のないことだったのかもしれない。しかし、愛する我が子のためにやれる精一杯のことである。そして、イエス様もそれをお受けになった。罪あるものと同じようにされた。神の子であったがゆえに地上に仕えたのである。人々の因習に身を委ねたのである。すべてのことを知っている者の姿である。わたしたちはキリストの体と言われる。自分たちの純潔だけを語るのではなく、地上の人々の因習に理解を示す。出家の民ではなく、在家の民である。この世において、主イエスキリストの香りを放つキリストの手紙、キリストの体なのである。
イエスという名前は、マリアとヨセフが願ってつけた名前ではない。イエスとは、あまりにも一般的な名前であった。イエスキリストは、姓名ではない。キリストとは、救い主という称号である。イエス・バル・ヨセフが本名である。ヨセフの子、イエスという名前である。イエスとは、一般的な名前であった。イエスとはヨシュアである。ヨシュアとは、ヤーウェは救い。どんなことがあっても神様は助けてくださる、という意味である。神様が私たちを救ってくださる。それがヨシュアという名前である。それがギリシャ語になっていくときにイエスとなる。神様がこの子をずっと守ってくれるようにイエスと名付けることはあまりにも一般的で、周りじゅうにあった。
私たちは知っている。マリアとヨセフの願いによって付けられた名前ではなかった。天使から命じられた名前であった。
ルカ1:29~30
この名前には、親の願いではなく、神のご計画があった。だから、天使ガブリエルはマリアのところにいって、ほかの名前ではなくイエスという名前をつけなさい、と言われた。8日目の割礼のときに、主なる神の願いとしてイエスという名前をつけた。わが子に名前をつけるときは、親の願いがある。しかし、彼らは神から命ぜられた名前を我が子につけた。自らの思いではない。バプテスマのヨハネも同じである。神からの願い、神は私達を救ってくださるという名前をわざわざつけた。神は救いであって、ほんとうにこの人は救い主である、という「イエス・キリスト」という名前を人々が呼ぶようになる。
使徒言行録でペテロが説教するところがある。
使徒言行録 4:5~12
イエス・キリストの名によるものです。ほかの誰によっても、救いは得られません。なぜ、私達がキリスト者と呼ばれるのか。イエス・キリストという方を救い主とするのか。この教会で礼拝を守っているのか。他の人に従わず、キリストを主とするのか。神様が一方的にこの方以外に救いは置かないと言われたからである。神様がお決めになったのである。私たちの願いが、イエス・キリストという名をつくりあげたのではない。神は救いであり、このかたが救い主である。私達が決めたのではなく、神様がお決めになった。だから、他の神々にいくわけにはいかない。他の神々ならば、私達が選ぶことができる。しかし、神がお決めになること。他の名では救いが起きない。ほかの誰によっても救いは得られない。この方の他には人間には与えられていない。神様が、この名にお決めになった。神様の祝福を身に帯びて、それぞれの持場立場に使わされているのである。主の御心にしたがって歩む良き歩みを、主と共に歩む幸いを感謝したい。
(2012年1月1日 釜土達雄牧師)