選び出され、召されて(ローマの信徒への手紙1:1~7)
ローマの信徒への手紙の最初の挨拶の部分の3回目である。先週は、神の福音というところに光をあてて、耳を傾けた。聖書の本質を知るために、どうしても知っておくべき「神の福音」について、まとめて聞いた。ローマの人々に書いた手紙のなかで、パウロは自分のことを「キリスト・イエスの僕」であり、「選び出され、召されて」使徒となったと書いている。選び出され、というのは、自分の願いではなかったということである。召されてというのも、自分の願いではなく神から召されて使徒となったというのである。何のために、神によって召されたのか、何のために使徒として立てられたのか。それは、「神の福音」のためであった。それを「キリストの福音」とも言っている。そのために、召されて、神様からひっぱりだされて、キリスト・イエスの僕として立たされた。
だから、神の福音ということを知っていないといけない。本当にしつこいとは思うが、何度も聞いてきた創世記12:1~3節は、聖書を学ぶ者にとっては常識である。
創世記12:1~3
聖書のなかで、人類にとって最も大きな出来事があるとするなら、この箇所であると何度も申し上げてきた。この事柄を忘れて聖書を学ぶことも、この事柄を忘れてイエスキリストについて学ぶこともできない。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。
信仰的な高揚感が高まっている方々は1節や4節を大切にする。そういう人は、あまり旧約聖書を読んでいない。大事なのは2~3節である。出ていけと言われて、出ていったことが大事なのではなく、なぜ出ていったかということである。アブラハムは特別扱いされたのである。なぜか。祝福の源となるためであった。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入るからである。アブラムによって。こんなに力を込めて語るのだが、そんなに祝福がいるの?ということが疑問になる。それは創世記1章から11章の神様がお創りなられた世界をどう見ておられたかを神話の形で語る。歴史的事実ではない。大らかな神話の形を借りて、神様が、この世界をどう見ておられるかを語っておられる。
創世記3:17~19
エデンの園からの追放のときに、神様がアダムに語られたのは、土は呪われるものとなったということである。塵にすぎないおまえは、塵にかえる、と言われた。エデンの園には死はなかった。その神の言葉にしたがって、土は祝福されて、必要なものを実らせた。祝福された場所であった。祝福の反対は呪いである。祝福に満ちた世界として作られた世界が、おまえのために呪われた世界となった。人は死ぬべきものとして生きている。人が死ぬのは当たり前だろう。額に汗して、食べ物を得るのは当たり前だろう。それは、神様に呪われた世界が当たり前だろうと言っていることである。違う。この世は、もともと神様に祝福されたものとして創られた。しかし、アダムとエバはエデンの園から追放されていく。アダムとエバの物語を通して、かみさまがこの世界をどのように見ておられるかを知るときに、神様は私たちから遠く離れておられるということになってしまう。しかし、いきなり、突然に、前触れもなく、創世記12章1節である。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。神から呪われた世界が、一変する。復楽園が実現する。神は私たちに命を与えて、人生をお与えになったのに、なぜ、このように労苦するのか。人類の歴史の中に介入してこられた。それが、聖書が語っている福音、メッセージである。これが、ゴスペルである。神が人類の中に介入されたメッセージである。パウロはそれを語る。
主イエスキリストが生まれるまでの歴史が書かれている。アブラハムという人物に対して約束された、地上のすべての氏族はあなたによって祝福に入る。神と共に生きることはどういうことかということが語り継がれていく。すべてのものが、神のみもとに召されて、神と共に生きることができるようになる。それを「福音」というのである。
ヨハネ黙示録21:1~8
2節をもう一度。「新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」悲しみがなくなる、死がなくなる、目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。神様がアブラムに向かって語られた、あの祝福の約束が成就する、というのである。神と共に生きるエデンから追放されたときに、神と共に生きることができなくなった。しかし、神が人と共に住み、人は神の民となる。そのために、神様が地上に介入してくださったのである。これが、聖書がかたる大いなる福音、大いなるメッセージである。
教会も、宗教団体とよばれる。母親に牧師になるという話をした。普通の大学に行くことを条件に、神学校に行くことを許された。普通の大学ということで日大に入ったのである。普通の大学。何やってもいい。農業の勉強をした。農獣医学部に入った。不思議なことはたくさんある。東京神学大学の入学が決まったとき、母親が、仲良しだった妹に話をしていたのを聞いた。「達雄ちゃんは、宗教家になるんだって。しょうもないわね。」クリスチャンですよ?それを聞いたときに、自分が宗教家になるのか?とびっくりした。そして、その妹さんが、「え~、宗教家?おかしいんじゃない?」と言っていた。それから、思い出した。儲けという漢字は、儲けという字になる。宗教っていかがわしいのよ。「まぁ、キリスト教だから、そんなへんな宗教じゃないけど。」というのである。しかし、これが世間の常識である。
それで、東京神学大学に行くと、やはり変な人はいるのである。世間の常識というのは、そうである。宗教で儲けている人がいるからである。宗教に入り浸っていって、不幸になっている人や、不幸になっていく家族をたくさん見ているからである。だから「宗教に気を付けろ」というのである。
わたしが学生時代に小さな宗教団体が生まれて、それがだんだん大きくなって、教祖が同じ年だったので興味を持ってみていた。それがオウム真理教である。スズメ真理教というのを作った人もいた。そんなことが話題になるくらいに、宗教団体の認証というのは、あんなにいいかげんなんだというのを知った。宗教はへんてこりんである。そして、宗教団体の認証も。神学大学では、心理的な高揚によって起こることではなく、極めて冷静に学問として学んでいった。愛について学んでいく。愛は愛することも愛さないこともできる自由も自発。愛する者になりなさい、という神の命令は絶対である。愛そうとしないから、愛せよと言われたのである。愛さないといって罰を与えたことはないだろう。
キリストは殉教の歴史がある。パウロは、殉教者になったら救われるなどとは、どこにもない。難行、苦行をすれば救われるとはどこにも書いていない。主イエスキリストの十字架と復活を信じなさい。あなたも、あなたの家族も救われる、と。あえて、殉教する必要もないし、苦行をする必要もない。あとからお読みください。モーセが召命を受けるとき。なんで、わたしがそんなことをしなければいけないのか、とずっと言っている。ヨナ書でも出てくる。ヨナは、神様の命令の前に、どうしたか。逃げたのである。
神様の福音のために生きていくときに、喜んで使徒になったものなどいないのである。みんな逃げ回っているのである。何のために。神様のために、人々のためにはなるかもしれないが、それを自分でやらなくてもいいのである。使徒言行録のなかで、パウロはずっと主の弟子を脅迫していたのである。
使徒言行録 9:1~6
起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。そのあと、パウロはアナニアに会う。
使徒言行録 9:10~19
目からうろこのようなものが落ち、というところから「目から鱗」ということわざができた。いったいいつ、パウロはキリスト者になりたいと願ったか。サウロは一切、主の僕になりたいとは願っていないのである。それにも関わらず、「行け、」
宗教家になって儲けるのではない。信者が増えて儲かるのでもない。わたしの名によって、どれほど苦しまなければならないかが知らされる。自分からキリスト者になりたいと思ったのでもなく、一方的に主から選ばれて、本当に主がわたしを愛してくださっているのだということが分かり、目からうろこのようなものが落ちたときに、彼は書くのである。
「キリスト・イエスの僕、選び出され、召された使徒になったパウロ」と。
このかたが、私たちの主イエスキリストです。
神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。
この世界は神に愛されるものに変わった。神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。
神様から呪われるのではなく、祝福にあずかることができる。それを信じて生きることができるとは、幸せな事である。
(2017年8月27日主日礼拝 釜土達雄牧師)