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映画版「マチネの終わりに」はつまり「スマホを落としただけなのに」だった

この映画の主人公は、ポスターに写っている2人ではない。

これは2人にすれ違いを起こした人物のための物語。

「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える」

平野啓一郎の小説「マチネの終わりに」を貫く光のようなこの言葉。私の日常もその言葉に照らされている。
単行本化されてすぐに読み、嗚咽するほど泣いた。結ばれるべき2人が翻弄されていく姿やるせなさに、世界の輪郭を濃くする美しい比喩表現に、何度でも涙があふれた。

主人公のクラシックギタリスト・蒔野聡史を福山雅治さんが、パリ在住のジャーナリスト・小峰洋子を石田ゆり子さんが演じて映画化された。

どきどきしながら初日に映画館へ。

「マチネの終わりに」の魅力はストーリー展開よりも、やっぱり情景や心理描写の言葉にこそあるんだと実感。文学でしか表現できない部分にこそ、私は惹かれていたんだなぁ、と。

不思議なことに、映画の中では蒔野のおっちょこちょいぶりが目立ち、洋子の流されやすい性格が目につき、2人の恋を邪魔する蒔野のマネージャー、早苗の有能さが際立っていた。

蒔野は洋子と東京で再会する日にスマホをタクシーに落とし忘れ、それを取りに行くマネージャーの早苗に「念のため」と言ってなぜか暗証番号を教える。

早苗のスマホのっとり事件によって蒔野と洋子は別れ、早苗は蒔野と結婚。数年後、蒔野はニューヨーク公演へ旅立つ際にも玄関で早苗から「はい、これ」とスマホを手渡されている。忘れっぽいんだな。

洋子は婚約者がいたけれど、パリまで会いに来た蒔野から「洋子さん、もし洋子さんが地球のどこかで死んだって聞いたら、僕も死ぬよ」となかなかヘビーな告白を受けて婚約を解消。しかし蒔野と別れた後、その婚約者と結婚しニューヨークへ。お金と名声が好きそうな夫とは不仲で、離婚後は親権も失う。数年後、蒔野のニューヨーク公演を聴きに行き、翌日セントラルパークを散歩していて蒔野とまた出会う。

ニューヨーク公演を企画したのは早苗。早苗は、洋子のニューヨークの自宅をどうやってなのか突き止めて訪問し、自分が恋仲を裂いた真相を打ち明け、洋子にニューヨーク公演を聴きに来るよう誘う。

早苗は「蒔野が主役の人生の“名脇役”になりたい」と言う。でも彼女は脇役として登場する原作者タイプ。咄嗟に戦略を立てて実行し、数年かけて好きな人と結婚して子どもも産んで、恋敵のニューヨークの住所も把握し、夫をニューヨーク最高の舞台で演奏できるようにする。

これはすごい。

こんなことができるのは、自分が何を望んでいるかはっきりわかっていて行動し続けたから。

セントラルパークで再会した蒔野と洋子の様子から、明確に待ち合わせていたわけではなさそうで。この2人は成り行き任せだから翻弄されるのだ、と思わずにはいられなかった。

映画に教訓なんて求めない。

でも、映画版「マチネの終わりに」を見たら、自分が何を望んでいるのかわかっていないと幸せになれないし、大切だと思ったものは何があっても手を離してはいけないんだと思いました。
読書感想文の締めの一文みたいだけど。

詩にも教訓なんて求めないけれど、中学生の時に読んだロベール・デスノスの詩を思い出した。

そのドアをノックしてごらん
開かない。
そのドアをノックしてごらん
返事がない。
そのドアをぶち破ってごらん
かまわん 気にするな。
そのドアを蹴破って
中へはいり込んでしまったら
わが家だということさ。
恋路も 人生も 健康も
こうしてわがものにするんだな。

映画版「マチネの終わりに」は、卑怯な手段を使ってでも自分の欲しいものを手に入れ、真実を打ち明けて自分を救済し、「夫が主役の人生」の作・演出を担い続ける早苗という人物が、ドアを蹴破って「わが家」を手に入れるまでの物語だ。

それにしても、運命の2人を引き裂くきっかけとなったのはスマホ。ほんと「スマホを落としただけなのに」…!

絶対にスマホを落としてはいけない。

そんな教訓と、予想とは全然違う感情に興奮しながら、映画館をあとにした。

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