舞台「消失」を見たら、大人を大人たらしめるものについて考えていた。
先日、KERA CROSS 第六弾「消失」を見てきた。
主演の藤井隆さんと、音楽を担当した伊澤一葉さんに惹かれて、初めてのケラリーノ・サンドロヴィッチ作品を観劇。
終わったあとは、気持ちの置きどころがわからない暗めのもやもやした状態で、どうにか理解しようとコーヒー片手に友達と感想を話し合った。
ラストに向かって、記憶を消失する人や、正義だと信じていた任務を消失する人、大切な存在を消失する人など、登場人物たちがかけがえのないものを失っていき、日常が崩れ去る。
終盤までは、笑うシーンも多いからこそ(藤井隆さんの間の取り方や表情がすごく好きだった)、終演後には受け止めきれない感情でいっぱいに…。
本筋の感想とはずれるけれど、余韻を味わっているうちに、「大人を大人たらしめているものは、記憶の量なのかもしれない」と思った。
ここからはややネタバレになるのだけど、ある人物は42歳で記憶の一部を消去したり書き換えられたりしているのだけど、その年齢の割に無邪気な少年のような性格をしていた。さらに、終盤で、その人は覚えていないはずの子どもの頃の記憶が蘇るのだけど、その後の言動は幼さが目立ち、まっすぐでどこか不安そうで、なんだかいたたまれなかった。
その演出が印象的で、経験したことや味わった感情の記憶の量が少ないと子ども、多いと大人と定義できるのかも?と感じた。
野菜クズなどがコンポストの中で時間をかけて堆肥に変わっていくように、人間の体の中でも、体験したことや時間そのものがゆっくりと発酵して「いい土」に変わっていくのかもしれない。
雰囲気や姿勢、言葉などににじむその人らしさは、そういう内面から漂ってくるもののような気がする。
そう思いながら、以前、ある番組で見た服役囚の顔を思い出した。
その人は16歳のときに銃乱射事件を起こし、終身刑となった。番組では、収監からおそらく20年は経った時のインタビュー映像が流れたのだけど、表情には時間の流れを感じさせない少女のような幼さが漂っていて、しわやたるみといった加齢が表れた肉体とのアンバランスさが際立っているように見えた。
舞台「消失」で描かれた失われていくものに思いをはせながら、体験や時間という失われないものへ意識が向かっていた。