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大人のムダと子どものムダは同じか

この夏から、長女・次女のピアノの先生が交代しました。
長女4歳からお世話になっている先生が、産休に入ったためです。
別に音大を目指しているわけじゃないので、ボチボチとピアノ教室に通っています。父母ともに子ども時代から「ヤマハ音楽教室」に通っていて、少しぐらい音楽ができる方がいい、と思って、長女は3歳のときから、次女は4歳から、ヤマハに通っています。

めちゃめちゃ厳しい先生

新しい先生は50代?の、めちゃめちゃ厳しい先生。「講師の先生」を務めているとか。長女が昨冬にコンクールに出ちゃったものだから、どうやら「本気」と勘違いされて、教室側はバリバリの先生を紹介してくださったらしい。
さあ、これが吉とでるか凶と出るかw

適当は時間のムダ

先生の教えの中でもっとも厳しいのは、一切の「適当」を許さないこと。
弾けない数小節をどうしたら弾けるようになるか。だいたい先生がヒントをくれて、その通りに練習をしていけば1週間後にはクリアできるはずだけど…
だいたい、9歳も7歳も、その細かな指示を忘れて「適当」に練習をしていき、同じところでつまずき、そして「なぜ弾けるようにならなかったか」とその原因を詰問される…

「適当な練習は時間のムダ。工夫して練習をしなきゃ、弾かないのと同じ」

大人が聞くと、この意味がわかるんだよねえ。
でも、9歳にも7歳にも、この意味がなんだかまだピンとこない様子。

本人が気づかなきゃ意味がない

先生に「練習にもっと口出しした方がいいのか?」を問うと、「本人が気づかなきゃ意味がないので、お母さんは何もしなくて大丈夫」と。
うん、その通りだ、ということで傍観する。
ただ、ときどき耐えきれなくなって口を挟み、1時間ぐらい後ろに立ってみっちり練習をさせると、翌週のレッスンでは先生に「弾けるようになったじゃない」と言われる。「先生ごめんなさい、今回は私の力です」とこっそり心の中であやまるのです。

回り道もムダもまだまだいいんじゃない?

先生がおっしゃるには、「ピアノの練習って楽しいことなんて何もない。発表会のときにうまく弾けた、弾けなかった曲が弾けるようになった。そのふと湧いてくる喜びのために練習するんです!」と。

娘たちは、このコツコツと積み重ねていく面白さを味わっていけるだろうか。
大人は自分のいくつかの成功体験で、「工夫のしどころ」と「コツコツ積み上げること」を理解しているけれども(理解していることと、今なお体現できているかは別問題…ということは、自分の身に降りかかってくるので、あえて言葉にしないでおく)。

ただ、「面白い!」だけで、何かに熱中できることも、その集中力だけでものにしていける力も、実はまだ子どもたちの中にあると期待したい私もいて。
「練習って楽しいことなんて何もない!」なんてことは子どもたちにはまだ言いたくなくて、回り道もムダも、今はまだしていい年齢なんだけどな、とこっそり思っているのです。
何がムダになるか、どう工夫するのかは、人それぞれ感じることも違うんじゃないか。そしてそれを判断する力こそ、自分自身で身につけさせたい力だと考えています。



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