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「俺ガイルは脱構築」とはどういうことか?
「俺ガイルは脱構築」という言葉を聞いたことがあるだろうか?
最初に目にしたのがどこだったかはもはや忘れてしまったが、何度か目に止まった記憶がある。
正直、当時はそれが意味するところについてはあまり理解できていなかったが、幸運にもヒントを頂く機会があり、自分なりに解釈できるに至ったため、今回はそれについて書いていきたいと思う。
はじめに
この記事は、既に投稿している以下の記事の内容に大いに関係しているので、先に下記2つの記事を読んでいただければ幸いである。
本記事でも最低限の振り返りは行うが、あくまで最低限に留めるため、より詳細については直接記事をご参照いただきたい。
本物と脱構築
まず、脱構築について、「はじめての脱構築」の記事で述べたとおり、
広い意味で脱構築とは以下を意味している。
既存の枠組みや概念を疑い問い直し、それを一度解体すること
(さらに、新たな枠組みに再構成すること。)
広義の脱構築
この観点で考えた時、俺ガイルという作品はいろいろなものを脱構築しようとしているといえる。例えばスクールカーストであったり、男女関係などが該当するのではないか。
しかし、俺ガイルという作品における重要なキーワードである「本物」こそが、最も脱構築の要素を持つものであると考えているため、今回は「本物」と「脱構築」をテーマに掘り下げていく。
本物とは何だったのか(おさらい)
「本物とは何だったのか? 」の記事にて考察したとおり、
俺ガイルという作品の中で、主人公・比企谷八幡の考える「本物」は2度変化をしていると考えている。
そして「本物は見つかったのか?」の章でも述べたように、最終的に八幡がたどり着いた答えについて、以下のシーンで言及されている。
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/43600041/picture_pc_cdc071d522ad4656c6dd24516b629783.jpg?width=1200)
ダミープロムが終わった後、平塚先生に「本物は見つかったか?」と尋ねられたシーンだ。
「どうでしょうね。そうそう見つかるほど簡単なものじゃないでしょう」
「だから、ずっと、疑い続けます。たぶん、俺もあいつも、そう簡単には信じないから」
(Kindleの位置No.6441-6442/6454-6455).株式会社小学館
八幡は本物を見つけることの難しさを認識した上で、「簡単に信じず、疑い続ける」と答えている。
前記事の中でその姿勢こそが本物に近づき続ける唯一の手段だと述べた。
そして、この姿勢こそ脱構築である、と言うことが出来るのである。
どういうことだろうか?
今度は脱構築を行う目的についておさらいしてみよう。
なぜ脱構築するのか(おさらい)
「はじめての脱構築」の「8.なぜ脱構築するのか」の章にて取り上げたとおり、脱構築は脱構築不可能なものの存在に動機づけられ、それ(脱構築不可能なもの)に近づき続けるために行われる。
法と正義を例にしたジャック・デリダの言説によると、
一、法の、合法性の、正統性の、あるいは正統化(たとえば)の脱構築可能性が、脱構築を可能にする。
二、正義の脱構築不可能性もまた、脱構築を可能にする。それどころか、それは脱構築と見分けがつかない。
三、帰結。脱構築は、正義の脱構築不可能性と、法や正統化する権威あるいは正統化される権威の脱構築可能性とを分かつ間隙に生起する。
であり、
法が脱構築されるのは、脱構築できない正義というものが存在し、法がその正義に向かって問い直され続けるからだ、ということである。
これらを踏まえて、本物と脱構築の関係性を見ていこう。
本物は脱構築できない、ゆえに脱構築は本物である
一言で言ってしまえば上記のとおりである。
これについて掘り下げるために、「正義」と「法」の関係を、それぞれ「本物」と「現状の相手への理解」と置き換えて考えてみよう。
(以前の記事でも触れているが、本物が完全な相互理解だとしたら、それと対になるのは現状の理解になると考えている。)
八幡は、本物を「そうそう見つかるほど簡単なものじゃない」と認識しており、その困難さを認識する。だが、諦めてはいない。
本物を見つけるために「簡単に信じず、疑い続ける」わけだから、疑い続ける理由はネガティブなものではなく、むしろ前向きに本物に近づくためといえる。
疑い続けるという姿勢は、常に問い直し続ける(脱構築し続ける)ということと一致する。
それは、本物とは少なくとも簡単には到達できない(よって脱構築できない)、ということを認識しながらも、常に本物に近づき、本物との差を埋めようとすることに他ならない。それこそが本物に近づき続ける唯一の方法と言える。
つまり
・本物は到達困難なので脱構築できない
・だからこそ現状の相手(雪乃)への理解は脱構築できる
・脱構築は本物と現状の理解の隙間に存在する
のであり、
疑い続けることで、現状の理解の外にある未知の一面を見つけ、理解をよりオープンに、本物に向かって広げていく(脱構築する)ことが出来る。
図にして対比してみよう。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/43811997/picture_pc_b5fc36ec768d9a4fa3a783abf31519ef.png?width=1200)
このように正義のケースと本物のケースは同じ図式に当てはめることが出来る。
そして先のデリダの言説によると、
正義は脱構築できず、また脱構築と見分けがつかないということだから、
本物もまた同じであるといえ、
本物は脱構築できない、ゆえに脱構築は本物である
と言えるのだ。
本物に近づき続けるため、八幡の脱構築が終わることはない。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/43601331/picture_pc_ef95f172b3fa21150c280775d62b6cfb.jpg?width=1200)
参考
今回、「俺ガイルは脱構築」について、本物を題材に考えてみた。
他の考察者の方も俺ガイルと脱構築について考察されているので、
(本記事を読まれた方ならば既に読んでおられるかもしれないが、)
是非ご覧いただければと思う。
やはり俺の俺ガイル考察はまちがっている (pf%俺ガイル考察垢 さん)
野の百合、空の鳥 (才華@俺ガイル さん)
脱構築について言及されているページを示したが、お二方とも広く、かつ極めて精緻な考察をされているので、是非他の内容についても読んでみてほしい。新たな理解に出会えるはずだ。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。