「ひげひろ」で学ぶ”神話の法則”
ライトノベルと神話。
この2つを結びつけて考えることは些か難しいことのように思える。
片や低俗、片や高尚。このような印象を持つ人もいるかも知れない。
しかしどちらも一種の物語であり、その中に共通の型を見出すことは不可能ではない。
今回はライトノベルを題材に、世界各国の神話に共通し、物語の創作に応用可能なストーリーのフレームワーク(型)について考えていきたい。
「ひげひろ」について
今回ライトノベルの題材として取り上げるのは、しめさば氏による「ひげを剃る。そして女子高生を拾う。」(以後「ひげひろ」と呼称)である。
20代のサラリーマンと、家出した女子高生が共同生活を送る様子を描いた作品はシリーズ累計200万部を超えるヒット作となっている。
本編は全5巻で完結済みであり、2021年4月にはアニメ化され、現在Prime Videoでも視聴可能である。
英雄の旅
まず、神話のフレームワークとはなんだろうか。
これについて語る上で欠かすことのできない人物が、神話学者のジョーゼフ・キャンベル(Joseph Campbell, 1904-1987)である。
ニューヨーク州の名門大学であるサラ・ローレンス大学にて教授として比較神話学を研究し、古今東西・世界各国の神話を収集していたキャンベルは、「世界中の神話には、時代や文化的背景を超えて共通する法則性がある」ということに気づく。
そして1949年、著書「千の顔を持つ英雄」の中で、その法則について体系的に整理し、「英雄の旅(The Hero's Journey)」としてフレームワーク化を行った。
キャンベルが定義したフレームワークは大まかには以下の3フェーズに分けられる。
①旅立ち(Departure)
②通過儀礼の試練と勝利(Initiation)
③帰還(Return)
キャンベルはさらにこの3つのフェーズを細分化し、17のステージとして英雄の旅のフレームワークを構成した。
キャンベルはあくまで神話共通の型として、この「英雄の旅」のフレームワークを提唱したが、この理論は神話学者のみならず多くの作家や脚本家にも影響を与えることになる。
影響を受けた最も有名な人物の一人がジョージ・ルーカスであり、彼は執筆中の脚本に英雄の旅のフレームワークを適用して作品を完成させる。
その作品こそが「スター・ウォーズ」である。
ルーカスは後年、「キャンベルの書籍に出会っていなければ、私は未だにスター・ウォーズの脚本執筆に追われていただろう」と、受けた影響について述懐している。
神話の法則
キャンベルの手で明らかにされた神話のフレームワークは、創作への応用などを目的として複数の人間の手によって再構成されている。
中でも有名なものが、ハリウッドにてストーリー開発コンサルタントとして活動し、「美女と野獣」「ライオンキング」「アイ・アム・レジェンド」「ハンコック」などの作品に携わったクリストファー・ボグラー(Christopher Vogler, 1949-)によるものである。
ボグラーはキャンベルの英雄の旅における17のステージを12に再構成し、自らの著書「神話の法則」の中で創作のためのフレームワークとして示した。
彼の作り上げた英雄の旅の"実践ガイド"はハリウッドにおける一種の共通言語として多くの作品に活用されている。
今回はボグラーの定義による「英雄の旅」3つのフェーズおよび12のステップについて、まず各ステップの概要を示した上で、「ひげひろ」の該当するストーリーと照らし合わせながらなぞっていきたい。
フェーズ1/3:旅立ち
児童文学作家で「指輪物語」の翻訳でも知られる瀬田貞二によると、物語の最も基本的なパターンは「行って帰る」である。
英雄の旅最初のフェーズはその「行く」に相当し、英雄は日常の世界に別れを告げて冒険へと旅立つ。これによって物語が動き始めるのである。
ステップ1:日常(Ordinary world)
概略:
これから英雄、すなわち主人公は旅に出る。
旅とは必ずしも物理的な移動を伴う旅である必要はなく、非日常の世界へと移行することを指す。
それにあたって、まず最初は主人公が現在身を置く日常が描かれる。
主人公が日々を過ごす日常はたいてい平凡であり、これから訪れる非日常の世界と対比的に描かれる。
同時に、その後のストーリーで度々スポットライトが当たることになる、主人公の内的な問題が提示されることもある。
「ひげひろ」の場合:
「ひげひろ」においても、サラリーマンの主人公・吉田の過ごす日常から物語が始まる。
物語の最も基本的なパターンは「行って帰る」であることは先述したとおりだが、他にもう一つの基本文法がある。それは「欠落したものの回復」である。
これはつまり、主人公あるいはその周囲が失ったもの(あるいは最初から持っていなかったもの)を物語を通して取り戻す(手に入れる)ことを指す。
「ひげひろ」において、この2つのパターンどちらもカバーしていると言える。
「ひげひろ」の物語は、以下のような文章で幕を開ける。
そして失恋によるやけ酒のシーンが続く。
こうして吉田は開幕と同時に読者に欠落を印象づけられるのだ。
この時点において、欠落とは単純に恋人、あるいは大切な存在の欠落と受け取れるが、その後のストーリーを通して吉田の内面にある欠落も徐々に語られていくことになる。
ステップ2:冒険への誘い(Call to adventure)
概略:
平凡な日常を過ごす主人公に転機が訪れる。
使者の到来によって日常の終わりが告げられ、問題・挑戦・冒険などが与えられるのだ。
ここから物語に変化の兆しが現れはじめる。
「ひげひろ」の場合:
やけ酒の帰り道、吉田は電柱の下でうずくまる女子高生・沙優と出会い、泊めてほしいと依頼をされる。
それが非日常への転機となるのである。
キャンベルによれば、非日常(未知)との遭遇は「失敗が予想外の世界を見せる」ことによって起こることが多いとされる。
「ひげひろ」の場合において、失敗とは失恋による深酒であり、それによって深夜1時に道端に座り込んだ女子高生と出会い、しかも声をかけるという通常ならば起こり得ない世界へと吉田を引きずり込んだのである。
ステップ3:誘いの拒否(Refusal of the call)
概略:
冒険への誘いに対して一度主人公はそれを拒否する。
理由は様々であるが、変化・未知に対する恐怖であったり、主人公自身は乗り気であるが、周囲の人間に止められたり、環境がそれを許さない場合もある。
しかしながら、状況の変化などによって誘いを受けるモチベーションが生まれ、状況を受諾するのである。
「ひげひろ」の場合:
自らの身体と引き換えにという沙優の申し出に対して、「年下は好みではない」と吉田は拒絶する。
しかしながら「じゃあタダで泊めて」と言われ、結局の所タダで家に泊めてしまうのである。
物語の基本文法は「行って帰る」であることは先述したとおりだが、「ひげひろ」に関しては「来て帰る」パターンであると言える。
つまり吉田が旅に出るのではなく、非日常への使者・派遣者である沙優が来てそのまま居着くことで物語が動き始めるわけだ。
これは昔話で言えば、他に竹取物語や鶴の恩返しなどが採るパターンである。
翌日素面に戻った吉田は、会話の結果、沙優に以下のように告げる。
この時点で、この物語の外的目的、つまり来た沙優が帰るために達成すべきゴールとして「沙優の甘えた思考が改善されること」が(暫定的に)セットされたのである。
こうしてサラリーマンと女子高生の共同生活が始まる。
ステップ4:賢者との出会い(Meeting with the mentor)
概要:
非日常に足を踏み入れ始めた主人公は自らを導いてくれる賢者(あるいは師)と出会い、冒険を行うにあたって必要な訓練あるいはアイテムなどを受け取る。
例えば鬼滅の刃においては、家族を殺され妹を鬼にされたことで、強制的に非日常へと足を踏み入れ始めた炭治郎が鱗滝左近次の指導を受け、鬼殺隊に入隊できるだけの力を蓄える局面がまさしく該当する。
また、キャンベルによれば神話における賢者はたいてい小さい老人であるという。スターウォーズのヨーダを思い出せば、ルーカスが英雄の旅に大きく影響を受けていることが伺い知れる。
「ひげひろ」の場合:
「ひげひろ」において、明快に賢者あるいは師匠たるポジションを取るキャラクターはいないが、吉田の同僚であり友人でもある橋本がそれに該当するだろう。
橋本は、吉田がこの時点で唯一沙優を家に置いていることを打ち明けている相手であり、主要登場人物の中でただ一人の妻帯者である。
そんな橋本は、一般論として女子高生を家に置いておくリスクを指摘するが、結局吉田は賢者橋本の諫言には従わない。
もっとも従ってしまえばこのストーリーは終わってしまうのでメタ的に当然の選択ではある。
しかし以後も橋本の発言は後の展開を予見するかのようであり、吉田の心に引っかかり続けるのである。
ステップ5:第一関門突破(Crossing the first threshold)
概要:
非日常の物語は動き始めてはいるものの、まだ暫定的である。
ここからいよいよ非日常の世界へと本格的に歩みを進めていくために、主人公が冒険に専心することを示し、冒険が終わるまで後戻りすることのできない境界を越える必要がある。
境界には、その先が非日常であることを示す「門番」がいることもある。
「ひげひろ」の場合:
順調に見える共同生活。しかし、受けた恩を返す術がないと感じている沙優の不安感は広がっていく。そしてその不安を一気に顕在化させる出来事が、フェーズ2へのターニングポイントとなる。
境界には門番がいる事がある、と概要にて述べたが、「ひげひろ」において境界の門番(Threshold guardian)の役割を担うのが三島柚葉である。
吉田に好意を寄せる職場の後輩、三島は仕事終わりに吉田を映画に誘う。
自身が恋愛対象として見られていないということを悟りつつも、からかい半分に吉田に抱きつく。
そしてその光景を沙優は目撃してしまう。
いつか吉田の無条件な優しさに終りが来て、居場所を失う恐怖に駆られた沙優は、吉田のもとを去ろうとするが、吉田に見つけ出されて一度は家へと戻る。
沙優は、吉田と出会うまでの自らの家出生活について告白し、吉田にどうにかメリットを与えようと迫る。
しかし、再度吉田は沙優の提示するメリットを拒んだ上で、沙優が居ることで「みっともなくて寂しいオッサン」である自らが得るメリットを示し、改めて対等な構造での共同生活を提案し、沙優はそれを受託する。
それが本ステップ冒頭のセリフであり、これによって第一関門は突破されたのである。
こう吉田自身が述懐するように、いよいよ境界を超えて本格的な非日常が幕を開け、物語は次のフェーズへと進む。
これによって、ステップ3で暫定的にセットされていた外的目的(達成すべきゴール)は「沙優が帰りたいと思えるようになること」に改められる。
しかし帰りたいと思える条件が何であるのか、この時点では明らかにされず、その正体は次のフェーズのステップの中で徐々に明らかにされていくのである。
フェーズ2/3:通過儀礼の試練と勝利
日常の世界に別れを告げて冒険へと旅立った主人公は、この第2フェーズを通して、非日常の曖昧で夢のような世界において、試練を乗り越えながら成長を遂げ、ついに大きな勝利を掴む。
こうして通過儀礼(イニシエーション)を乗り越えた主人公は、変容を遂げたことを証明し、探していたものを手に入れるのである。
ステップ6:試練、仲間と敵(Tests, allies, and enemies)
概要:
境界を超えて非日常の世界を旅する主人公を待ち受けるのは、様々な試練である。
主人公の前に敵対者が現れて襲いかかる。
それに対して主人公は仲間とともに挑み、その試練を乗り越えていく。
特に長編の物語においては極めて重要なステップであり、このステップ6を繰り返しながら主人公に七難八苦を与える。
それによって、後に訪れるより大きな試練に向けた力を蓄えるとともに、誰を信用し、誰が信用できないのかを判断していくのである。
「ひげひろ」の場合:
『真の意味での共同生活』が始まった2人にも試練はやってくる。
例えば、吉田と出会う以前の沙優を知る男、矢口の登場である。
コンビニでのバイトを始めた沙優は、かつて家出中に泊めてもらったことのある男、矢口恭弥と同僚として再会してしまう。
昔のことを黙っている代わりに関係を迫る矢口に対し、吉田への迷惑を恐れて受け入れかける沙優であったが、そこへ吉田が帰宅し危機を脱した。
しかし去り際の矢口の言葉に、吉田は改めて自分と沙優の関係についての現実を知るのである。
一方で、新たに出会うのは敵ばかりでもない。
バイト先の同僚であり、同い年である結城あさみと沙優は友人になる。
二人の関係を訝しみ、半ば強引に家に上がり込むあさみだったが、吉田のことを認め、二人に助言を与え変化を助ける存在。つまり仲間となるのだ。
こうして試練を乗り越えながら、吉田と沙優は徐々に内的変化・成長をとげていくのである。
ステップ7:最も危険な場所への接近(Approach to the inmost cave)
概要:
種々の試練を乗り越えた主人公たちは、ついに最も危険な場所へと足を踏み入れる。
最も危険な場所は、日常から物理的あるいは象徴的に最も距離の離れた場所である事が多い。
そこで主人公たちは想像できない驚きや恐怖を経験しながら、ときに過去の経験に助けられ、迫りくる最大の試練への直面を予感し、できるだけの準備を試みるのである。
「ひげひろ」の場合:
「来て帰る」形式を採る「ひげひろ」の物語においては、最大の危機も向こうからやってくる。
バイト先のコンビニにやってくる黒塗りの車。そこから現れたのは沙優の兄である荻原一颯だった。
元は赤の他人である吉田と沙優にとって、沙優の家族である一颯は、象徴的に一番距離の離れた人物であると言える。
未だに家に帰る決心のついていない沙優は、捜索の手から逃れようとする。
そこで助けになるのは過去の経験である。
一颯の捜査網に掛かりそうになるたび、かつて敵対者あるいは境界の門番として立ちはだかった矢口や三島が窮地を脱する手助けをしてくれる。
これによって、その場を凌ぐことに成功するが、沙優は自身に残された時間がそう長くないことを悟り、やがて訪れるだろう厳しい試練への心の準備を始める。
一方その事実を知らされない吉田も、先のステップ(試練、仲間と敵)からの様々な出来事を通して、自分自身の内面と向き合いながら心の変化に気づき始める。
こうして運命から逃れようとする沙優であったが、ついに一颯は居所を突き止めて吉田と沙優のもとに訪れる。
こうして沙優の退路は絶たれ、「最も危険な場所への接近」のステップは完了するのである。
ステップ8:厳しい試練(The ordeal)
概要:
「最も危険な場所」で待ち受けるのは、これまでで最大の試練であり、最も重大な恐怖である。
そこにおいて主人公は死の危機に瀕するほどの状況に陥る。
主人公は死んだかのように見える状況の中、その危機を脱しついに試練を乗り越える。
「ひげひろ」の場合:
このまま強制帰還となってしまっては、「沙優が帰りたいと思えるようになること」という外的目的は達成されない。
しかし、家出に至った経緯を知り、沙優を心配する一颯から1週間の猶予が与えられ、沙優は自らと向かい合い、決心をつけるという大きな試練が課されるのである。
そして沙優は吉田とあさみに、家出に至った経緯を話す。
その顛末は、友人・結子がいじめに遭い、自らの目の前で自殺してしまったこと。
そして沙優をよく思わない母に、あらぬ疑いをかけられたということであった。
その事実を共有した上で、最後の1週間が幕を開ける。
沙優はあさみや三島、後藤らとのやり取りを通じて自らの過去、そしてこの逃避劇と改めて向かい合い、「吉田と出会って良かった」ことの証明、という動機づけを得て、帰る決心をつける。
これにより、この非日常における外的目的「沙優が帰りたいと思えるようになること」はついに達されるのである。
※三島とのシーン、及び後藤が自らの過去を語るシーンはアニメではカットされている。
一方の吉田も、自らの内面と向き合わされる。
吉田はこれまでどこまでも「(自らの中の)正しさ」を優先し、自らの意思を顧みてこなかった。
仲間たちからの忠告から、それらと向かい合い、ある一つの決心をする。それが次のステップ以降への布石となる。
ステップ9:報酬(Reward)
概要:
最大の試練を乗り越えた主人公は、その報酬として探していた宝や新たな能力を手に入れたり、長年の因縁からようやくの和解に至る。
危機を乗り越え、一息ついてこれまでを振り返る事ができる場面でもある。
「ひげひろ」の場合:
先の「厳しい試練」において、試練を乗り越えたのは沙優だといえる。
そんな沙優にとっての報酬は、帰還に吉田が付いてきてくれるという知らせである。
これから待ち構える、帰宅そして母との対面は、沙優にとって未だ大きなハードルであるが、この報酬により沙優は帰還に強い支えを得ることになる。
フェーズ3/3:帰還
最後のフェーズで主人公は非日常の世界を後にして、元の世界へと引き返す。
つまり行って帰るの「帰る」に相当するフェーズである。
しかし大抵の場合その帰路はスムーズには行かず、再び大きな試練へと飲み込まれていく。
ステップ10:帰路(The road back)
概要:
試練を乗り越え宝を手にした主人公は、新たな目的地に向けてゴールを設定する。多くの場合は、旅を終えるために元の世界を目指すのである。
しかし敵の残党などが再び現れ、逃亡劇となることもある。
「ひげひろ」の場合:
東京をあとに、家のある旭川を目指す沙優は、帰宅を前に高校へと立ち寄る。
ここで「敵」とは自らの過去である。
結子が目前で命を絶った屋上へと向かい、過去と向かい合った沙優は、吉田の助けもあり、かつての痛ましい出来事に区切りをつける。
これによって1つ目の過去という敵との和解を果たすのである。
ステップ11:復活(The resurrection)
概要:
元の世界を目指す主人公は境界を渡ろうとするが、そこで再び厳しい試練が待ち受ける。
主人公は時に最大の苦しみを味わい、再び死に直面しながらも、困難な選択や大きな犠牲をはらって復活を遂げ、ついに問題は完全に解消され、境界を越える。
「ひげひろ」の場合:
ついに家へと帰り着いた沙優。
そこで待ち受けるのは、変わらない母の態度であった。
会話は平行線を辿り、ついに言ってはならない言葉をかける母親に対し、吉田が動く。
コップの水をぶちまけたい衝動を抑え、吉田は沙優の母親に未成年である沙優を育ててくれるよう土下座と言う形で懇願する。
この土下座こそが吉田が払える最大級の犠牲であると考える。
ここまで沙優を匿い、恋人などではなく、保護者的な存在として振る舞ってきた吉田ではあるが、実の親を前にしては、その立ち位置は意味をなさず、どこまでも吉田は他人でしかない。
これに対抗しうる唯一の手段としては、吉田が沙優に対して婚姻などの意思を示すことで配偶者あるいはそれに準ずる関係となることである。
しかし、あくまで吉田にそういった意志はなく、よって沙優に対する一切の責任も義務も有しない。
また、大手食品メーカーの社長の一家たる荻原家において、金銭も意味をなさない。
その状況下に置いて、日本の礼法に置いて並外れた恭儉・恐縮の意を含むと解釈される土下座とは、他人であり恋人でもない吉田が払うことのできる最大級の犠牲であり誠意であり意思表示であるといえる。
この犠牲をきっかけに、ついに親子は完全解決とまではいかないまでも、和解への一歩を踏み出すのである。
こうしてついに問題は解消され、共同生活に終止符が打たれ、二人は別れる。
ステップ12:宝を持っての帰還(Return with the elixir)
概要:
主人公はついに元の世界への帰還を果たす。
冒険を通して手に入れた宝が、世界に日常と平穏を取り戻し、大団円を迎えるのである。
「ひげひろ」の場合:
目的が果たされ東京へ帰った吉田のもとに日常が戻ってくる。
しかしそれは独りぼっちの空虚な日常である。
味噌汁を作る吉田の脳裏に、沙優と出会った翌日の朝の出来事と沙優の作った味噌汁の味が思い出され、喪失感に襲われる。
この時点で沙優によっての外的目的達成は、同時に吉田にとっての欠如・喪失である、ということをようやく自覚する。
それから2年の時が流れ、仕事帰りの吉田はいつかの電柱の下で、大人になった沙優と再会する。
これでついに欠落は回復され、物語は幕を下ろす。
最後にスタート地点(今回の場合ステップ2)に戻ると言う意味で、「ひげひろ」の物語は典型的循環型ストーリーだといえる。
物語をスタート地点に戻して比較的に描くことで、見るものに主人公たちの変化・成長を感じさせるのである。
物語がここで終わるため、その後の吉田と沙優の関係については明らかにはされない。
吉田は未だに後藤に好意があり、後藤との関係にも多少の進展が示唆されているだけに、単純に沙優と恋人になるかどうかについては疑問であるにせよ、互いに少なからず大事である存在との再会は欠落を埋めるものであることは想像に難くない。
なぜ共通の型が存在するのか
以上が英雄の旅の12のステップである。
ここで、原点に立ち返って考えたい。
なぜ相互交流のなかったはずの古代において、世界各地で紡がれた神話たちに、文化・時代の壁を超えた共通の型が存在し、それが今なお多くの作品の中に(意識するにせよせざるにせよ)息づいているのだろうか?
ジョーゼフ・キャンベルによれば、
人間の精神の中には共通の人間性があり、普遍的に無意識の欲求や恐れを持っている。
それが象徴的に表されたものが神話であるため、時代や文化を超えた共通性をもつのだという。
一方で神話や物語が、実は骨格としては同じ型を持っていようとも、その中で伝えたいメッセージによって様々な工夫を凝らすことで、それぞれ全く違う表情を持った物語へと姿を変える。
あるいは構成に少しのアレンジを加えることで、見るものに新鮮な驚きを与えてくれる。
こうして同じ骨格から生まれた様々なバリエーションが、陳腐化することなく後世まで語り継がれているのである。
単一神話論を唱えたキャンベルが、その書のタイトルを「千の顔を持つ英雄(The Hero with a Thousand Faces)」としたところにはそういった意味が込められているのではないだろうか。
今回は「ひげひろ」を例に英雄の旅に当てはめる試みを行ったが、
その他の有名な物語・映画など各種作品のストーリーに照らし合わせて、どのように当てはまるのか、あるいは当てはまらないのか、といった見方・読み方をしてみるのも一つの楽しみ方になるかもしれない。
果たして、あなたのお気に入りの作品はどうだろうか?
参考文献
ひげを剃る。そして女子高生を拾う。1-5
しめさば 著、イラスト ぶーた、足立いまる(4巻) (角川スニーカー文庫)
言わずもがな、今回英雄の旅を紹介する題材として取り上げた作品である。
全五巻完結済みであるが、サイドストーリーも発売されており、今後続刊の可能性もある。
以後は英雄の旅に関する参考文献である。
紹介する順番に早いものほど理論的・概念的であり、
遅いものほど創作への応用が意識された実践的な内容になっている。
千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上・下
ジョーゼフ・キャンベル著、倉田真木・斎藤静代・関根光宏 訳(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
神話学者ジョーゼフ・キャンベルによって神話共通のフレームワークが初めて示された「英雄の旅」の原点である。
西洋のものから日本のものまで世界中の神話に加え、ユング派心理学の流れを組んで、人が見る夢にも英雄の旅の型が現れるとして、夢も題材に全17ステップのフレームワークを論じている。
論じられている内容は学者による神話論であり、正直かなり難解であると言えるが、原点から「英雄の旅」を知る上ではこれに勝る文献はないだろう。
神話の法則 ライターズジャーニー
クリストファー・ボグラー 著 岡田勲 監訳 講元美香 訳 (ストーリーアーツ&サイエンス研究所)
キャンベル版の元祖「英雄の旅」を元に、より現代創作に適した形で12ステップに再構成されたボグラー版「英雄の旅」について詳細に説明されている。
今回紹介した12ステップについて最も詳細に論じられているのは当書籍である。また、今回は部分的にしか取り上げなかった、物語におけるキャラクターアーキタイプ(登場人物の役割パターン)についても詳細に論じられている。
発行部数が少ないためか、プレミアが付いており、上記Amazonでも定価以上の価格で販売されている。
しかし、発売元であるストーリーアーツ&サイエンス研究所のHPからはまだ定価で購入できるようなので、入手を検討される方は以下サイトを参照されるとよいだろう。
物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術
クリストファー・ボグラー、デイビッド・マッケナ 著 府川 由美恵 訳 (KADOKAWA)
ボグラーが仕事仲間であり同じくハリウッドでの映画脚本などに携わるデイビッド・マッケナと共著した創作のための実践論である。
「英雄の旅」はもちろんのこと、ロシア魔法民話の構造分析から31ステップの同様な形態を見出したウラジミール・プロップの「昔話の形態学」など創作に関する様々なテクニック・フレームワークを紹介している。
ストーリーメーカー 創作のための物語論
大塚英志 著 (星海社 e-SHINSHO)
元編集者であり、サブカルチャー・民俗論などの評論家・大学教授であるとともに、自らも「多重人格探偵サイコ」などの作品の原作者でもある大塚英志による創作のための実践手法が示された一冊である。
最も実践的な内容であり、英雄の旅やその他フレームワークの紹介に続いて、後半にある30の質問に回答していくことで物語のプロットを作ることができるという内容になっている。
以上、長文に最後までお付き合いいただきありがとうございました。
これを機に、様々な作品に触れる際の新しい観点の1つになったとしたら幸甚です。