耳なしシロベエ(アルメニア)
アルメニア
という国名を聞いて、これを読んでいる皆さんの心に、何が思い浮かぶだろうか。
私がアルメニアを行き先のひとつ選んだ最大の理由は「アルメニアについてマジで何も知らないから」である。
恥ずかしながら、私の頭の中のアルメニアについての引き出しに入っていたのは「System of a Downはアルメニア系アメリカ人のバンド」という知識のみだった。(かっこいいよね)
ジョージアの首都トビリシからアルメニアの首都エレバンに入り、そこに数日滞在したあと、汽車でギュムリへ向かった。ギュムリはエレバンから90kmほど離れており、すぐ西はトルコとの国境である。
今回は、アルメニア滞在中の最大のハイライトだったと言っても過言ではない、イェレルク聖堂を訪れたときの話を書こうと思う。
イェレルク修道院 (Yererouk)は、現存する中でアルメニア最古の聖堂のひとつ。
ギュムリから60キロほどのアニペンザ村にある。聖堂じたいはトルコ国境までわずか200メートルほどの場所に位置している。
当日の朝、揚々とギュムリのバス停へむかった。
バスを待っていると地元の人に「その路線、利用者が少なすぎてここ1ヶ月以上運休してまっせ」と言われ、予定を変更し汽車で行くことにした。
1時間ほど時間をロスしてしまったが、1時間でバスが来るのか来ないのかはっきりしたというのは非常にありがたいことである。
聖堂に行くには、ギュムリ-エレバン間を往復する汽車に乗り、聖堂の最寄り駅Ani(5kmほど離れているが)で下車する必要がある。
汽車は岩ばっかりの大地(誇張抜き)を進んでいき、Ani駅に着いたが、自分以外誰も立ち上がらない。
おそらく終点のエレバンまで乗って行くであろう人たちに「コイツ大丈夫か?」みたいな目で見られつつ降車。ちなみに私も「自分大丈夫か?」と思っていた。
そんな不安を払拭するために、Wikipediaで検索をかけるのである。
旅を始めてからのことだが、その場所の田舎レベルをはかるのに、Wikipediaの日本語記事があるかどうかというのはひとつの指標になっている。
結果
エレバン:ある
ギュムリ:ある
アニペンザ村:ない
イェレルク聖堂:ない
いや、イェレルク聖堂もないんかーい。
えらいど田舎に来たのだという自信が生まれたところで、イェレルク聖堂へむかって歩き始める。
こんな田舎道を歩いてる人間(アホ)は自分しかおらず、家もほぼない、荒野を背にひたすら歩く。
道路はきちんと舗装されていたのだが、異様に新しかった。おそらく3ヶ月前ぐらいに舗装されたんだと思う。車もほぼ通らない。
5キロほど歩いてイェレルク聖堂に到着。
周囲には風を遮るものがなにもなく、吹きっさらしの状態。
スケッチのために1時間ほど滞在するつもりだったが、こんなに風が強くて大丈夫かしらと不安になった。
ふと背後に気配を感じて振り向くと、白くて大きい犬がいた。
完全に油断していた。
凶暴な野犬のテリトリーに入ってしまったかもしれないと思い、少し身構えた。
こんな人っ子ひとりいないド田舎で野犬に噛み殺されれば、いつ見つけてもらえるかわからない。
私はとても犬が好きで、たとえ野犬であっても「犬」と呼び続けるのはなんだか嫌なので、ここからはワンちゃんと呼ぶことにする。
ワンちゃんは私の前にまわり込み、謎のステップを踏みながら私との距離感をはかっているようだった。
私は手に持っているスケッチブックを盾のようにして臨戦体制にはいった。
が、そこで気づく。
これ、見たことあるやつや。遊んで欲しいときのワンちゃんや。
人間がめずらしいのか、あるいは下手なことをしなければ人間はやさしいと知っているのか。
見た目はかなり厳ついが、笑顔がかわいいし、かなり人懐っこい。尻尾をブイブイ振って、付きまとってくる。
インドあたりから気付いてはいたが、野良犬が総じてデカい。おそらく小型犬は生き残れないのだと思う。
万が一噛まれてはいけないので、物理的な触れ合いは諦めることにした。代わりにバックパックに入っていたオレオのパチモンをあげることにした。
「ひとつだけやで」とクッキーをあげたものの、キラキラした目でこちらを見つめられると「もうひとつだけやで」が延々と続き、結局一袋すべてをワンちゃんにあげてしまった。
挙句、「もうクッキーないから」と言ってスケッチを始めると、ワンちゃんは私の足に爪先を乗せてくつろぎ始めたのだった。
私はこのワンちゃんを勝手にシロベエと名づけた。
シロベエの耳は、物理的にちぎれて、なかった。
ワンちゃんは、ものすごく嬉しいときに耳が後ろ向きに倒れて「耳なくなってる状態」になることがあるが、もしもシロベエの耳があれば、
私と一緒に過ごした数十分はそんな状態だったのかもしれない。
途中で雨が降ってきた。
シロベエは、「こっちに行きたいんなら…」という感じで、控えめに私に目線をよこしながら聖堂へ向かって歩き始めた。
シロベエの後に続いて中へ入ると、聖堂の建物じたいに屋根はないが、雨宿りできそうなスペースがあった。
そこへ腰掛けて、スケッチを続けた。
始めのうちこそシロベエは私の足元でくつろいでいたが、せせこましい場所があまり好きではないのか、立ち上がってどこかへ行ってしまった。
雨はすぐに止み、ふたたび青空が見えた。
スケッチを終えて聖堂の外に出たが、そこにシロベエはいなかった。
イェレルク聖堂には人っ子ひとりいなかったが、シロベエのおかげで1人でも寂しくなかった。
心優しいシロベエが、今もどこかで元気に暮らしていたらいいなと思う。