愛と命のバトン
1. 最悪の年明け
「母さんが…事故に遭って、危篤だって。」
普段は冷静なインド人夫が電話口で震える声を振り絞った。
2023年、年明け。
あの日は週末で、彼はわざわざ日比谷にある有名なベーカリーにパンを自転車で買いに行ってくれていた。
出かけて30分後に彼から着信があった時、「あ、私が頼んだパン、無かったのかな?」くらいに思っていた。だがその衝撃的な知らせを聞いて、とにかく彼が安全に帰宅する事と義母が命を取り留めることを必死に願った。
30分くらい経っただろうか。険しく必死な顔をした夫が帰ってきたその瞬間、彼の電話が鳴った。
「母さん…ダメだった。」
その場で彼は床に崩れ落ちた。「オレ、もうどうすればいいんだ!」そう子供のように泣き叫びながら打ちひしがれる彼を私は、ただ抱きしめるしかなかった。
同時に、私の祖父が自死により亡くなった夜と、父が亡くなった半年前が重なり、母親を突然亡くした彼の痛みがわかりすぎて、胸が引き裂かれる思いだった。何も考えられず、ただ「人生最悪の日だ。」というフレーズだけが頭を高速で回っていた。
2. 夫の生い立ち
彼にとって、母は全てだった。
夫はムンバイ郊外の貧しい、下級カーストの家庭に生まれた。大人になってからこそ「ママ命」だが、思春期までは、母を軽蔑して嫌っていたそうだ。
おそらく父親は自己愛性パーソナリティ障害で、外面はいいが家族全員を虐(しいた)げ、子供に暴力をふるい、母を毎日罵倒し馬鹿にしていた。そんな父の言うことを幼かった夫は鵜呑みにし、母を蔑(さげす)み、父を崇拝していたのだ。もしかすると、サバイバルのため、そうせざるを得なかったのかもしれない。
11歳くらいの時、家に水道がないので水をペットボトルに詰めて何度か家と井戸を往復する作業があり、母に頼まれたらしいが、空のペットボトルを蹴飛ばし「嫌だ。」と拒否したそうだ。遠くに飛んで行った砂埃まみれのペットボトルを拾いに行った母は、怒る気力もなく、静かに泣いていた。「なんで僕はこんなことするんだろう?」母の涙を見て、自分のやったことを一瞬で後悔したと言う。
3. 母の愛
字が読めなかった母だが、自分なりに子供たちにできることはすべてやってくれていたことに彼は気がつき始めていた。
高熱が出た次男を医者に連れて行くために、行き先の表示が読めないターミナルで、次男をおぶったまま人混みでもみくちゃにされながら必死に病院を探したそうだ。
自分の夫の少ない給料で育ち盛りの男の子2人に食べさせるために、毎夜閉店間際の八百屋に行き、半分腐った野菜を破格で譲ってもらうのがルーティーン。(大人になるまで、私の夫はなぜ彼女が深夜近くに買い出しに行くのか知らなかったらしい。)それでもお金が底をつくと100円、200円を借りに、早朝子供たちが起きる前にそっと家を出て隣人宅を巡って頼み込んだ。
またある時は、友達のようにバースデーケーキを食べてみたいと泣く息子のために、家にあるひよこ豆の粉でレシピを想像して焼いたぺったんこの生地に、ドライフルーツを乗せて、「こんなのしかなくてごめんね🥲」とバツが悪そうに学校から帰るのを待っていたそうだ。それでも誕生日に「ケーキ」があったことが本当に嬉しく、2人で「不味いね」と台所でつまみ、笑いながら感じた母の優しさが1番のプレゼントだったと夫が以前教えてくれた。
4. 父のストーリーへの疑問
その辺りからか、夫は父親の作った母に関するストーリーを疑い始めた。そして15歳ごろ、体も大きくなって父の身長を超えた辺りに、疑いは確信に変わって行った。
ある日家に帰ると母が頭からの出血をタオルで抑え泣いている。息子が帰ったことを察知した母は、「お母さん窓枠に頭ぶつけてちょっと切れちゃったの。馬鹿ね。」と笑って見せた。「母さん、窓に尖った部分はないよ?どうやったらそんな怪我するの?」しつこくしつこく問い詰められ、初めて父親に鋭利なモノで頭を殴られたと涙ながらに白状した。
そこで初めて彼は、子供が見ていない隙に母が家庭内暴力に日常的にあっていることを知った。そして大人になったら自分が母を守り、幸せにすると決心したのだった。
5. 母を幸せにするためのキャリア
夫は19歳でコールセンターで働き始め、1ヶ月半分の給料で15000円(そう。1万5千円!!)を手にした時、真っ先に母に持って行ったそうだ。すると、「お母さんこんな大金どうしよう!気持ちだけで本当に嬉しいから、あんたが使いな。」と言って一銭も受け取らなかったと言う。
夫は母にもっと安心してお金を受け取ってもらうことで、父に依存する生活から解放させたい一心で、とにかく貪欲に働いた。英語も必死に学んだ。彼はITやネットワークのスキルを身につけてはより上のポジションへの転職を繰り返し、遂には25歳でフランスのパリでIT業界トップのCapgeminiで働くことになる。そして下層カーストのスラム出身で、大卒でない彼のキャリアは一気にグローバルステージに躍進した。
6. 父への復讐
その後夫は更に転職し、ドバイで働いていた。久しぶりにインドに帰国すると、そこには相変わらず暴力的な父とそれに怯える母の姿があった。ある日、小さいことから夫婦喧嘩が始まった。「オレの家に住まわせてもらってるくせにデカい顔すんじゃねーよ、この馬鹿女。」と母の頭をはたきながら父親が言い放った。
その瞬間、夫は今までの憎悪が爆発したらしい。そして彼は初めて父親をぶっ飛ばした。もう成人して彼は190cmの大男。小学生の息子を骨折するまで叩きのめした父親だが、大きくなった息子に殴られ身の危険を感じたのか、すぐ外に逃げて隣人たちにこう訴えた。
「皆さん、見てくださいよこの暴力息子を!老いぼれた父親を殴って、親不孝な!」
外面の良い父親はその場の同情を買い、これ以上の攻撃は夫の立場を悪くするだけなので、なんとか抑えたらしい。しかし、父親の家庭内暴力は明らかに悪化しており「あの死神の手で私は殺される。」が母の口癖だった。
その後日本での就職が決まり、側にいて監視していることができないことを懸念した夫は、報復を怖がる母を無理矢理警察に連れて行き、被害届を提出し、次に暴力を振るった場合の法的措置の手続きを取り、来日したのだった。
7. 母を幸せにするための婚活
日本に着いて早々世界にはコロナが蔓延し始め、在宅勤務になっていた夫は焦っていた。ドバイで付き合っていた、一度は将来を考えた子とは宗教の違い(彼女はムスリム、彼は無宗教)で破局し、気がついたら30歳を過ぎていた。
インドでは大多数がお見合い結婚をしており、友人もほとんど家庭を持っている。彼の母は、「あんた私の心配もいいけど、長男が結婚しないことにはお母さん安心できないよ!親戚にも近所の人にも結婚の話ばっかり聞かれて!あんたが結婚するまで、お母さん菜食主義になってお祈りしてるからねっ!」と謎の願掛けを始め、毎日のようにプレッシャーをかけていた。
「そうか、母さんを幸せにするにはお嫁さん候補を見つけなければ!」
コロナ禍で出会いの場がなかった彼は出会い系アプリへ。同じくその頃、婚約破棄から5年して再び人生のパートナーが欲しくなり夫探しを始めた私と出会ったのである。
私の婚活エピソードはまた今度披露するが、家に居場所がなかったもの同士、私たちは生きる意味や場所を求めて宇宙や世界という共通の興味関心を持ち、実際に会う前から毎日何時間電話で話しても足りないほどだった。彼の教養や語彙力豊かな話しぶりから、私はてっきりアメリカのトップスクールの大学院を卒業した人だと勝手に思い込んでいた。ところが、彼の生い立ちや、日本に来るまでの経緯を聞いて、私が思っていた、レベルの高い思考力や人間性を手に入れるには世界の名門大学に行かなければならないという固定観念が完全に崩壊した。そして、私のように与えられた選択肢を生きるのではなく、どれだけ彼が努力して勉強して、リスクを取って道を切り開いてきたのかを考えると、尊敬しかなかった。
そして初デートの日、私は職業病からか、彼に将来の夢を聞いた。
「自分が持てなかったから安心できて楽しい家庭を、作ることかな。」と言った。
今までデートしてきた男性はみんな、「経営している事業を拡大する」や、「海外3拠点くらいに家を持って暮らす」や、「研究者として功績を残す」など、自分のキャリアや経済的成功を挙げていたので、とても新鮮に感じた。そしてカオスな幼少期を過ごした私としても、彼と同じ夢を見たいと思った。
というわけで、我々はすぐに結婚が決まり、2021年1月末に出会って、もう4月には義母にビデオ通話で挨拶することになったのだ。
義母は彼が初めて女性を連れてきたので、泣いて喜んでいた。インドでは色が黒いことがあまりよく思われておらず、色白がとにかく美の条件として考えられている。そして義母も夫もインド社会では色が黒めであることを非常にコンプレックスに思っていたので、日本人の私はとても色白に見えて大歓迎された。
「インド人でも、同じカーストでも、同じ宗教でもないけど、色白だからOK!」と言われ、安堵しながらも「白けりゃ誰でもいいんかい〜!」と、とても複雑な気持ちになったのを覚えている。
8. 母を幸せにするための妊活
私ももう38歳になっており、そろそろbiological clockの期限も迫っていた。割とすぐに妊活を始めたのだが、実は妊活を始める前に、私たちは娘の名前を既に決めていた。
これまた驚いた話なのだが、夫の暴力オヤジは、私の義母と結婚した際、彼女の名前が気に入らず、有名な女優の名前に法的に改名させたのだった。しかし、義母の元々の名前は、「ヒラ」と言って、ヒンズー語やインドのマラティ語で「ダイヤモンド💎」という意味を持つ素敵な名前だったのだ。その話を付き合って間もない頃に聞いていた私は、彼に「ヒラって可愛い名前だよね?日本語でも発音しやすいし。」「え!俺もそう思ってた。」と、全会一致ですんなりとヒラに決まった。なぜ男の子の名前が思いつかなかったのかは、今も説明ができない。
それから一年ほど妊活をし、不妊治療に踏み切ろうとした矢先、やっと自然妊娠することができた。
「母さんには、安定期まで言わないことにしよう。じゃないと有頂天になってすぐご近所さんとか親戚に言いふらすから。」と提案してきたので、私も賛成した。
ところが、その数日後、ビデオ通話で義母が彼におかしなことを言ったのだ。
「菜海子ちゃん、女の子妊娠してるわね😏」
まだ妊娠検査薬で判明したばかりで、クリニックにも行っていなかった私は、ギクっというかゾッとした。「え?むしろ女の子なんですか?」とつい聞きたくなった。そこで彼は、「母さん〜、何言ってるんだよ〜。妊娠したら教えるに決まってるじゃん。」と誤魔化した。
「あんたこそ菜海子ちゃんに聞いて見なさいよ、女の子妊娠してる顔してるから。」どんな顔じゃ〜い!と思ったが、「本当にヒラちゃんがいるのかも!」と胸がときめいた😍
その1週間後、私はクリニックに行き、性別こそあと20週はわからないと言われたものの、妊娠は確定したのだった。
「母さん、おばあちゃんになったよ。」
あまりにも義母が女の子を妊娠していると毎日言い張るので、これ以上嘘をつき通せずとりあえず妊娠したことを伝えた。すると結婚の挨拶をした時以上に、義母は泣いて喜んでくれたのだった。それから毎日私がどうしているかインドから電話をしてくれ、体調を気遣ってくれた。そして夫は、「産まれたら日本に呼ぶからね!」と母に言い、私にも「俺、やっと母さんを幸せにできるよ。」と嬉しそうに言うのだった。
それからたった2週間後だった。義母が孫の顔が見れなくなってしまったのは。
9. 事故の真相
「母さんの口癖通り、母さんはあの死神に殺されたよ。」
その言葉が示唆する残忍な意味に、私はまるで喉に石が詰められたかのように絶句した。
なんと義母は義父に息子に言わずに密会しており、その日もまた喧嘩になったまま靴も履かず、ヘルメットも着けずにバイクに無理矢理乗せられ、道路の真ん中で振り落とされたと言う。
出血性ショックで、その場で亡くなったそうだ。
インドの警察はズサンで、勝手にバイクから落ちてしまったという父の言葉を鵜呑みにし、この事件は単なる交通事故として処理された。そして父は、「愛する妻が亡くなったのはオレのせいだ!オレさえ死ねば!」と自殺を示唆する茶番劇まで繰り広げ、親戚や地域の同情を買っていた。
その話を私にしている時、夫の目が悲しみから憎悪一色に変わっていくのを見て見ぬ振りはできなかった。
インドに葬儀に向かう彼に、「あなたはもう父親だよ。お母さん以上に守らなければならないものがあるんだから、お腹の子を犯罪者の子供にしないで。」と言い送り出した。インドでは何度か一触即発の場面はあったらしいが、結婚指輪を眺めては、父に復讐しても誰の得にもならないと自分に言い聞かせていたそうだ。
10. 喪失の深い悲しみの中で
ほんとうのチャレンジは、もしかしたら帰国後だったかもしれない。不幸か幸いか、私は私の父をその半年前に亡くしたばかりだったので、生まれて初めて親のいなくなった世界で感じる感情にとても共感できた。そして私の祖父の死では、突然1番の愛着対象を突然失う経験をしている。その際に感じる後悔、罪悪感、自己嫌悪感、怒り、哀しみ、そしてショックなど、様々な感情と22年間向き合ってきた。
だからこそ、夫の哀しみと共に生きていく人生がとても大変なことになることは容易に予測できた。実際、「母さんを守れなかった自分に価値なんかないし、母さんのいない人生に意味なんてない。」とか、「母さんが死んだ時点でオレの人生はもう終わってる。」など、妊娠中の妻に向かって言うべきでないことをたまに、彼の精神が弱っている時に言われた。
それには、「これは彼が言っているんじゃない。母を失った彼のインナーチャイルドが、そして彼の心の傷が訴えているんだ。」と自分に言い聞かせ、とにかく哀しみを肯定し、時には一緒に泣いた。
感情の浮き沈みはあれど、妊娠中夫は本当に私を労ってくれた。毎晩散歩とマッサージを欠かさずしてくれ、「今日も赤ちゃんを育ててくれてありがとう。赤ちゃんを大切に思ってくれる君は、もう素晴らしいママだよ。代わってあげられなくてごめんね。」と感謝して励ましてくれ、私はとても救われた。そして彼の涙の数は、私のお腹の大きさに反比例して減っていった。
とはいえあの時1番辛かったのは、定期検診に行くことだった。本来赤ちゃんの様子や成長が知れて楽しいはずなのに、「もし赤ちゃんに何かあったらどうしよう。今の彼に悪い知らせを伝えるなんてできない。」取り憑かれたかのように一晩中様々なリスクをネットで漁り、最悪なシナリオを想像することで心の準備をして産婦人科に向かった。そしてその不安は、無事に赤ちゃんが産まれてくれるまで続いた。
11. 新しい血の繋がった家族
義母が亡くなったのは1月8日だったので、毎月8日が近くなると夫は無意識に苛立ったり、鬱々としたりしていた。まるでトラウマの再演をするようにカウントダウンをし、8日に怯えているようでもあった。「なぜ7日の夜話した時に父に会うことを聞き出せなかったのか。」「8日のあの時間に電話が鳴って…。」
私も、祖父を失った8月が長い間大嫌いだったから、大いに気持ちはわかった。
そして迎えた私の嫌いな8月の、彼の嫌いな8日の朝、私は明らかな違和感で朝早くに目が覚めた。前駆陣痛とは何かが違う。そう思いながら彼に腰を揉ませ、陣痛の間隔を測るアプリにログを入れ続けていた。夜8時、いよいよ陣痛が5分おきである。入院バッグを持って、タクシーで7分ほどの場所にある産婦人科に向かった。
あれよあれよと言う間に夫を呼ぶように言われ、夜中の2時に分娩台に上がり、9日の朝4時に、彼の立ち合いのもと赤ちゃんが元気に叫びながら産まれた。彼が号泣していたのは言うまでもない。
そしてその瞬間、今まで私達にとって死を象徴していた「8月」と「8日」が、誕生を象徴するものに生まれ変わったのだった。
12. 愛と命のバトン
人生とは数奇なものだ。生まれも育ちもバラバラな私達は似た孤独を抱え日本で出会い、半年という短い期間に私は父を、彼は母を失った。複雑な関係性の中で私達は親を軽蔑し毛嫌いした時期もあったが、大人になって愛に行き着いた経緯があったため、その執着に近い愛着たるや、なかなか手放すことは容易ではなかった。しかし、今年父の命日を迎え、私には悲しみ以外の感情が芽生えていた。それは、幸福感と感謝だ。
「お父さん、私本当に幸せだよ!私を地球に存在させてくれて、ありがとう!お父さんが私のお父さんで良かった!」
父の日によく言う口だけの感謝ではなく、心からそう思った。
もちろん、父が生きていたら、義母が生きていたら、どんなにヒラを可愛がっただろう、と思う時もある。でも、彼も私も、親を扶養するという大義名分のもと親離れできずに精神的に依存していた。だから子供を迎えるにあたって、親の喪失は必要なことだったのかもしれないと、自分に言い聞かせている。
ずっと後ろを見ながら走ってきた私達に、「今度はお前達が前を向いて先頭を走りなさい。」と、父と義母から愛と命のバトンがヒラという形で渡されたかのようなタイミングだった。
そして親になって思うことがある。あんなに親に認められようと全力疾走しなくても良かったんだと。Jordan Petersonが、子供の最初の4年間は本当に親と子供にとって特別な時期だから絶対に大事にしなさいと言っていたが、最初は意味がわからなかった。そんな中、岡田斗司夫が、「子供は最初の3年の圧倒的可愛さで、もう親孝行は済んでるんですよ。」と言っているのを聞いて、妙に腑に落ちた。
本当にその通りである。人生前半の地獄を全て帳消しにするほどの幸せと笑顔をたった一年で与えてもらったのだから。
死や喪失は悪いものや、乗り越えられるべきものというより、人間として人生を豊かに生きるために大切なものな気がする。Susan Cainが著書”Bittersweet”でも言っていたが、苦みがあるから甘みを感じるように、悲しみや苦しみは、人生の歓びや幸せをより色鮮やかにしてくれる。
突然最愛の人が亡くなってしまう痛みを知っているからこそ、今の瞬間愛や感謝を思いっきり表現できる。自分もいなくなってしまう日がくるという危機感があるからこそ、求められた抱っこをまるで最後のチャンスのように大切にすることができる。
そうして些細な日常を慈しみながら、私達が受け継いだ愛と命のバトンを、繋げていこうと思う。
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