当たり前って、時間と労力を使ってはじめて【当たり前】になる。
ふと思ったことがありまして。
「当たり前って自分や誰かの時間と労力があってはじめて【当たり前】になるんだよな〜」ってことです。当たり前だけど。
時間と労力がまったくかからなくて、コスト0でつくりだせる「当たり前」なんて存在しないよなって。
例えば毎日当然のように使っている携帯とパソコン。
開発する人や設計する人、そして工場でつくる人たちなど。色んな人の時間と労力を経て自分の手元へ。
携帯やパソコンで触れられる各種コンテンツ(無料、有料問わず)は、莫大な時間と労力の末に私たちの元に届けられます。
それにご飯。
実家で何もしなくてもご飯が食べられていたのは、家事をしてくれていた家族が自分の時間と労力を消費してくれたからだったし。ひとり暮らしの場合は、仕事で疲れていても自分の時間と労力を使わなきゃご飯がつくれません。
こうして考えると身の回りに存在している「当たり前」は、自分や誰かの時間と労力をトレードした先につくられているんだな~と思い至ったわけです。
だからあなたが毎日やって当然と思っている家事や仕事も、自分の時間と労力をトレードして得たもの。時間と労力がトレードできなかったら、途端に「当たり前」じゃなくなってしまいます。
ここで言いたいのは「当たり前の日常に感謝しましょ~」的なことではなくて。感謝できることは素敵だけど、問題は「実はしなくてもいい当たり前に時間と労力使っちゃってない?」ということ。
今、あなたが思っている「当たり前」は、貴重な時間と労力を削ってまで「やる必要のある当たり前」ですか?
世間や周りの人に合わせた「当たり前」だったり、「しんどいけどここまでやるのが当たり前!」と自分が思い込んでしまっている当たり前って……ない?
ここまでの質問で「自分の当たり前は100%納得してる当たり前!」という人はそのままで大丈夫だと思うんですけど。じゃあ「実はちょっと納得できないけど当たり前だから我慢してやってる………」という人がもしいたら。
「当たり前」の再設定をしてみたらどうでしょうか?
時間と労力をどれ位の分まで自分の「当たり前」に注げるか。
やって当然、と思うけど、実はこなすのがちょっときつい……。そう思うならきつくない程度に時間と労力を再分配しちゃえばいいんじゃないかなって。
私はみんながみんな、同じ分量の時間と労力で「当たり前」をする必要なんてないと思っていて。
だって得意不得意は人それぞれだし、理想とする暮らしもそれぞれで、なにを大切にしているか価値観も違って当然だから。それに、気軽に周りへ「ヘルプ!」を出せる環境かどうかでも「当たり前の基準」って変わってくると思います。
もし「毎日頑張っているのになんだかモヤモヤするな……」と思っている人がいたら。自分が納得できて心地のいい「当たり前」で毎日を過ごしたくないですか?
しなくていい「当たり前」をしちゃっていないか? と自分に一度問いかけて振り返ってみてほしいな、と思います。
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