象牙の塔の文学研究 ― 2. 神を殺し、自由になる
そもそも、ぼくが文学=小説を研究することに興味を持ったいちばんはじめのきっかけは、文庫本の最後に載っている「解説」を読んだときだったと思う。そのときに読んだ物語の中から、自分には分からなかったたくさんの「物語に秘められた意味」みたいなものを掘り返していて、こんなに深いんだ、と戦慄した。
文庫本の解説みたいな読み方は、たぶん、今回の旧記事で紹介している「テクスト論」に当てはまる。「テクスト論」を知って分かったのは、別にそれが「正しい読み方」ではない、ということ。深く読むことが正しいわけではなくて、読者に委ねられた読み方の一つでしかない(詳しくは以下の記事に)。でも、やっぱり物語好きとしては、深く読んでみたいわけですよ(笑)。こんな読み方もできるよ!と言いたい(笑)。だから、テクスト論が、やっていていちばん楽しい(笑)。
文学=小説などなどを研究する意味について考えるために、研究手法の歴史を追ってみた旧記事の第二弾。
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1980年前後まで、文学を研究する意義は、明治以降の「近代的自我」=「国家や藩、家とイコールではない、自分、個人」の形成過程を明らかにすることだった、と前回書いた。藩や家からの縛り、と、自分自身、の間の葛藤が表れた、文学というものを研究すること。それは、作家自身の葛藤であり、だから文学研究は作家を研究することだった。
それが、1980年前後になると、変わってくるのです。
2.
それは、ある考え方が文学研究に応用されたことによって起こった変化。
例えば、椅子。<椅子>という物と、「椅子」という言葉、どっちが先にできた?と聞かれたら、どう答えるか。椅子じゃなくてもいい。クジラや熊、猫だったらどうか。たぶん、物が先にあった、と考える人が多いんじゃないか、と思う。歴史上でも、ずっと、物が先にあって、それに人が名前を付けた、と考えられてきた。
でも、こう考えてみたらどうだろう。大昔の人が、ある平らな切り株を見て、それを座るための「椅子」にする。「椅子」という言葉がなければ、それはただの切り株であって、椅子じゃない。「椅子」という言葉があって、はじめて切り株は椅子になる、と考えることができないか?
椅子は機能が絡んでくるから、ちょっと話が違うんじゃない?っていう人がいるかもしれない。そしたら、クジラで考えてみる。<クジラ>といういきものと、「クジラ」という言葉、一見<クジラ>がいて、人がそれを「クジラ」と名付けたように思う。でも、そこにイルカを加えて考えてみたい。クジラとイルカの違いは何か?と聞かれたら、それ、実はすごく曖昧。クジラとイルカの違いは、サイズの違いだけ。そして、クジラとイルカの間に線を引いたのは、人間だ。<クジラ>と<イルカ>がいて、それぞれに人が名付けた、とは言えない。人が、ここまでは「クジラ」、ここからは「イルカ」と呼ぼう、と決めたのであって、そうしなければ、それは大きなのと小さなの、それしか違いがない、一つの生物だったかもしれない。
テレビを見ていて、前に気になっていたことがあった。「先住民の言葉で、○○という語は、山の上の虹がかかった原っぱを指します」みたいなナレーションがあったりした。○○は一語で、そんな短い言葉でずいぶんと複雑な状況とか場所を言い表せるんだな、と思っていた。でも、それは、その先住民にとってその状況のその場所がすごく大切な意味があるから、それを一語で言い表していただけだった。「平らになっていて座れる切り株」ではなく、それを「椅子」と呼ぶように、「山の上の虹がかかった原っぱ」を、「○○」と呼ぶ。
世界の中のその<物>だったり、その<場所>を、世界の全体から切り取るのが、言葉。だから、言葉があって初めて、人はその<物>や<場所>を認識できる。そう考えると、言葉こそが先にあった、と考えることができる。
(この考え方は、言語学の分野で発生したみたい。これは、たぶん、分かりやすい。日本語で「あ」「い」「う」「え」「お」という5個の母音がある。でも、英語では、もっとたくさんある。考えてみれば、「あ→い」を、切れ目なく言うことができると思う。この間に、日本人は切れ目を入れた。でも、その中間の音を一つの母音と認識する言語もある。その言語では、母音の数はもっと増える。)
ここまで説明してきたような考え方を示して、言語学の学者、ソシュールという人が、「はじめに言葉ありき」と言ったんです。これが、大事件だった。聖書には、「神が世界を創った。その中の物に、神が一つ一つ名前を付けた」というようなことが書かれているらしく、ソシュールさんの言葉は、神の否定だったわけです。神殺し。先ず物がある、わけではなく、先ず言葉がある。言葉が世界を区切っていく。ここからここまでをAという言葉で表し、ここからここまでをBという言葉で表す。Bは、Aではないもの。世界は、このように「関係」でできている。
前置きが、めちゃくちゃ長くなりました(笑)。が、ここからこの考え方を文学研究に当てはめて行きます。「神殺し」を、文学に当てはめるとどうなるか?
文学作品における神とは、作家です。作家が、Aという意図を以って書いたんだから、この作品をAということを表している。それに対して、ほんとに?と言う。本当に、この小説は、Aというようにしか「読めない」のか?
ある小説は、作家のオリジナリティによるもの、と考えられている。でも、その小説は、無数の言葉によって紡がれていて、その言葉を創ったのは、その作家じゃない。その言葉はもともとあったもので、しかもその小説以外に様々な場面で使われている。例えば、「朝起きたら……」という文章で始まる小説があったとして、「朝」という言葉も、「起きたら」という言葉も、小説の作者が創ったものではない。そして、10人の読者がいたら、「朝起きたら……」という文章を読んで、10通りの朝を想像するでしょう。
そんな風に、ある小説は、無数の言葉と、その言葉が帯びているイメージ、ニュアンス、文脈によって紡がれた「織物」であり、その中から、ある何本かの縦糸、ある何本かの横糸、を読み取るのは、読者の役目である、読者こそがその小説の意味を決定するんだ!と考えるようになったのです。作者は死に、小説の意味を決めるのは読者になった。
もちろん、「朝起きたら……」という文章に続く部分で、こんな朝でこんな場所で目覚めて、みたいなことが書かれていると思う。そうしたら、読者は、そこに書かれていることと矛盾しない読み方をしなければいけない。それでもその「朝」は、まだ読者ごとに異なるイメージを持っているはず。つまり、読者は、その小説に書かれていることと矛盾しない限りにおいて、自由な読みが保証されるのです。
これが、「テクスト論」という文学研究の方法論。「テクスト」とは、「織物」のことで、この無数の縦糸、横糸によって構成されたテクスト=小説の、どの縦糸、どの横糸を使って読むかは、読者の自由である、と言う考え方。そして、文学研究の目的は、「その小説のおもしろい読み方を示すこと」になった。
これが、ぼくがいちばんおもしろいと思っている、文学研究の方法論。読者は、作者の考え方から自由になったのです。論理的に、こう読めるでしょ!と説明して他の人を説得できれば、その読み方は認められる。小説は、多様性の塊になった。その中のおもしろい読み方を示すことが、楽しいと思う。……趣味ですね(笑)。
でも。この研究方法は、行き詰まりを迎えます。「おもしろい読みを示すこと」が目的となった文学研究は、その研究、本当に意味があるの?と聞かれたときに、窮する。これまでは、「人がどうやって自我を獲得したか明らかにすることは、意味あるでしょ!」と言えた。でも、テクスト論においては、その小説がおもしろいから、なんなの?と言われて、言い返せない。そこで、また模索が始まる。それについては、また次回。
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ぼくは、テクスト論についてしっかり説明されるまで、どうしても作品と作家を切り離せませんでした。作品は作家が作ったもので、だから作品の意味は作家が意図したことでしょう?と思っていた。
でも、物語が「テクスト」=「(引用の)織物」であるという考え方を知って、とても衝撃的で、おもしろかった。物語の中で使われている言葉、一つ一つは、その中にいろいろな文脈を持っている。その文脈をひっぱってきて、物語の読解に活かすことができる。そういう考え方。一つ分かりやすい例は、地名。この物語に出てくる「ロンドン」は、この時代のこういう場所で、だから、物語には書いていないけれど、こういう意味を持っているはず、みたいな。
修士論文では、テクスト論的な考え方もしていますが、この次に出てくる「文化研究」的な手法とからめています。これまた、、おもしろいのです。