遠野

昔話を研究すること

 民話、昔話と呼ばれる物語は、意味が分からない、と思ったことはないですか?

 大学生のころ、物語にはすべて、隠された意味があると思っていた。そう考えるようになったのは、文庫本の「解説」の影響だった。「解説」には、ぼくがその本を読んで、考えもしなかったようなことが書かれていた。ここに出てくる鳥は、自由の象徴だろう。ここで主人公がトンネルをくぐるのは、子供時代との決別を意味している。そういう、象徴や隠喩。物語は、そういう秘めたテーマを持っている。ストーリーは、それ自体ではなく、裏のテーマにこそ意味がある。

 そう考えていたから、物語がおもしろくても、ストーリーを楽しめても、本当の意味でその物語を理解していない、と常に思っていた。だから特に、子供向けの絵本なんかを読んで、文字通り、理解に苦しんだ。小さな男の子が、外に行って、帰ってくる。ここに、どんな意味があるんだろう?どれほど難解な物語なんだろう?

 そういう読み方を、否定はしない。裏の物語みたいなものを秘めている物語もあるだろうし、そういう読み方をすることを、大学院での文学研究を経た今は、できる。でも、同時に、文学研究を経て、そういう読み方が「正しい」わけではない、ということも知った。だから、純粋にストーリーを楽しむこともできるし、それ自体に意味があると思っている。

 でも、昔話や民話の中には、物語としての体をなしていないと感じてしまうものが多くあった。尻切れとんぼのような、開いた物語が閉じないような。物語は、ストーリーそれ自体に意味がある、と思っていても、昔話や民話には、しっくりこない感じを覚えていた。

 だからこそ、神話、民話、昔話には惹かれていた。

 何故こんな物語があるのだろう?どうして、この物語は、こんな形なんだろう?それが知りたかった。だから、文学研究をするときも、自然と民俗学的な読解が多くなった。(これはまた別の話。)

 で。常々そんなことを考えていたのだけれど、『性食考』という本を読みながら、こういうことかな、と思ったことを書いてみる。

 昔話の、よくわからない展開は、べつに「意味のない物語」なのではなくて、現在のぼくたちにはわからない何かが、たぶん隠されている。どうしてそれは隠されているように見えるのか。それは、そこに表れていることが、昔の人には自明のことだったから。説明する必要がなかったから。ではその、「それ」とは何か?

 神話は何のためにあったのか、ということを考えてみたい。一つには、世界の成り立ちを説明するためにあった。それに準じる形で、民話には、モノの起源を表す話、地名の起源を表す話、なんかがある。ほかにも、たぶん、教訓譚なんかもあったと思う。

 どれも、今(当時)の「世界」を説明するもの、だ。

 だとすると、民話、昔話のよくわからない展開は、きっと、昔の人の世界観、世界認識を表しているんだろう。世界はこういうものですよ。こういう風に世界はできているんですよ。

 それは、昔の人の、だけではなく、今の人にも共通する、人間の根源的な世界認識なんだと思う。例えば、『性食考』は、「交わること(性交)と、食事と、死に、通底する感覚を人は持っている」というテーマを、昔話や民話から読み解いている。読んでいくと、すごく説得力を持って、自分の認識に気付かされることも。(『性食考』については、もっと内容に踏み込んで、後々ここにまとめられたら、と思っている。)

 昔話や民話を研究することは、一見荒唐無稽に見える物語を分析することで、そこに表れた人間の世界認識を明らかにすることにつながるんだと思う。それは、現代人の意識下にはない感覚だけれど、昔の人には自明の認識だったのでしょう。

そういうものを解き明かす。だからこそ、昔話・民話研究は、おもしろい。

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