フィリピンの孤児院で学んだ事
フィリピンの孤児院でボランティアをしていた高校時代の野球部の同僚から
『孤児院の子供達に野球を教えてくれないか?』
と言われたのは去年の8月。
僕は二つ返事で『行くよ』と返した。
僕は大学二年生の時にアメリカ留学を経験して以降、タイやベトナム、カナダでヒッチハイクをしたりと色々な経験をしてきた。
とりあえず”面白そう”って思った事は全部やってみる主義なのだ。
フィリピンへの誘いを受けた時も二つ返事で承諾をしたのも”面白そう”と思ったからだった。
そして、迎えたフィリピンでの初日。
孤児院はフィリピンの首都マニラから車で約6時間ほどの小さな田舎町にあり、当たり一面には畑や草原が広がっていた。
そんな自然豊かな土地の中にある孤児院では、Wifiも繋がら無い為携帯も使えなく、水も殆ど無いといった状況で日本とは全く違った生活環境があった。
そんな環境の中でも子供達はいつも笑顔だった。
“幸せってなんなんだろうな”
彼らの笑顔を見る度にそう思った。
彼らは社会的に見たら”過酷”と言われる環境で生きているのかもしれない。
しかし、テレビやラジオ、ニュースだけでは分からない物があるのだ。
”彼等には彼らの幸せがある”
そして、僕にはそれを上手く言葉で表現する事が出来ない。
気温35度の中裸足で砂の上を駆け回ったり、
電気の薄暗い部屋で一緒にカレーを作ったり、
言葉が通じないけれど同じ部屋でトランプをして遊んだり、
炎天下の中一緒に野球をする中で、
僕は気が付いた。
“人と人が分かり合うのに、国籍や性別、年齢、言葉の壁なんていうものは関係ないのだと”
今から約70年前、第二次世界大戦中この土地では日本軍によるフィリピン市民の殺害が行われていた。
戦後は日本軍に恨みを持った人がフィリピン国内に溢れかえっていたそうだ。時が経つにつれて、戦争の傷跡は徐々に薄れて行き第二次世界大戦から約70年後
こうやってフィリピンの子達と同じ空の下で
同じ食卓を囲む事が本当に幸せだった。
そして、あっという間にフィリピンでの生活が終わった。
子供達にお別れを告げて、帰りのバスに乗り込む。窓から流れるフィリピンの街並みを眺めながら、僕は心に決めた。
これからは僕達が”僕達の時代”を作っていく。
国境も言葉の声も貧富の差も性別もそれらの事を全て抜きにして、お互いが尊重しあえる時代にしていきたい。
そんな夢物語だと思える様な事も、”僕達なら”と思いながら今日も生きていく。
こんなつたない長々とし記事を読んでいただきありがとうございます!
また、次回の記事も読んで頂けますと幸いです。
でわ、また!
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