「普通の努力」は、普通じゃない。
努力というものには、
大きく分けて、3つの種類があるんじゃないかと思う。
まずは、「派手な努力」。
たとえば、エベレスト登山に挑戦するとか、世界記録に挑むとか、そういう努力だ。
当然大変だけど、これは、いい。
その圧倒的な努力感は、周りからも注目の的。やる気もぐんぐん高まるだろう。
次に、「ユニークな努力」。
たとえば、60歳を超えて初めてプログラミングに挑戦するとか、オタクがバンドに挑戦するとか(ちなみに自分は、高校時代に漫画研究会の仲間とロックバンドをはじめたが、その話はまた別の機会に)、そういう努力だ。
これは、これで、いい。
その希少性は、ぶっちゃけ話のネタとして使える。
その特別な経験は人生を豊かにするし、講演会を頼まれる可能性だってある。
三つ目は、派手でもユニークでもない、言うなれば、「普通の努力」だ。
変わった努力じゃない。
誰でもやっているような、
普通の、ありきたりの、努力。
たとえば、今、僕は、今年の6月に病気を患って以来、週に二回ほど病院にリハビリテーションに通っている。
これがなんてことはない、30分間、マシンの自転車をこぐ、という、まあ、とても一般的なものだ。
病気の話は、実は鉄板ネタで、面白おかしく話せるのは当事者だけの特権なのだが、
(病気は、不思議なことに、当事者以外が笑って話すと、不謹慎になるが、当事者が笑って話すと、武勇伝になる)
面白おかしく話すほどのネタでもない。
これが、毎日10時間運動してトライアスロンを目指す、とでもなれば、「派手な努力」になるし、世界にただひとつしかない器具を使うリハビリ、とでもなれば、「ユニークな努力」にもなるのだが、残念ながら、かなり普通なのだ。
だいたい「派手な努力」や「ユニークな努力」と比べて、「普通の努力」は圧倒的に不利な立場だ。
話のネタにもならない。
目立たない。
地味。
気づかれない。
普通の努力と言ったって、続ける側からすると、それなりに大変なのに。
だから、あえて、声を大にして言いたい。
「普通の努力」を自分は断固支持したいと。
たとえば、スキルアップをしたくて、週一回、仕事の後に勉強する。
たとえば、健康のために、週末、ジョギングする。
今このエッセイを読んでいる人の中にもいるはずだ。人知れず、普通の努力をしている人が。
エールを贈ろうじゃないか、普通の努力に。
周りから見たら普通の努力でも、あなたにとっては、普通じゃない。
あなたの人生にとって、その努力はきっと特別な力になるはずだから。
君は
昨日の君と変わらないように
見えるかもしれない
変わらない髪
変わらない目
変わらない話し方
でも本当はその奥で静かな変化が
起きている
周りからは
普通に見えるかもしれない
日々の努力が
体の奥で
芽吹いている
春になる頃
春になる頃にはきっと
雪解けの下に
いつのまにか
緑の草花があるように
きっと
エッセイ「いつか、ここにあるもの。」、季刊誌「住む。」で連載中。最新のエッセイは、「住む。」最新号でご覧ください。http://www.sumu.jp/ ※本エッセイは、「住む。」72号(2020年2月冬号)に掲載されたものです。