肉体と意味の対決。
風邪をこじらせたのか、肺炎になってしまい、令和になる瞬間を病院で迎えてしまった。
一か月ほど前から、微熱が続き、また寝るとノドの奥がヒューヒュー言う症状があり、これはいよいよおかしい、と病院に行くことを決意したのが、4月30日の夜。
ゴールデンウィークのど真ん中の、深夜の病院の待合室に入ると、ひっきりなしに、泣いている子どもを抱きかかえた親や怪我をした若者、マスクをしたスウェット姿のカップルが、続々と姿を現していた。
令和になる、時代が変わる、浮かれた雰囲気は、そこにはない。
待合室から簡易ベッドに通され、検査の結果を待っていると、病室の時計の長針と短針がカチリと重なり、日付を超えたことを告げた。
令和だ。
「令和になりましたね」ぐらい、患者同士で声をかけあってもよかったのかもしれないが、どうも、そういう雰囲気でもない。
黙々と、自らの職務を全うすることに専念する医師と看護師たち。
ある意味、人が生きて、病に苦しみ、死んでいく、この世界の掟は、時代が変わっても何も変わらないんだぜ、という強い意思表示にすら感じる。
ある意味、貴重な体験かもしれない。
そんなことをぼんやり考えていると、カーテンで仕切られた隣りのベッドに、新しい患者が入ってきた。
声しか聞こえないが、どうやら母親とその息子のようだ。
先生からの病気の説明を、母親が熱心に聞いている。病気なのは、息子のほうで、気胸という病気だという。
気胸は、肺に穴が開いてしまい、空気が漏れる、という病気だ。
確か、痩せ型の男性に多い病気で、イケメン病なんて呼ばれることもあったな、と気胸についての知識を思い返していると、母親が精一杯の陽気さで「よかったじゃない、イケメンの証だよ」と息子を励ます声が聞こえてきた。
これは、肉体と意味の対決だ。
気胸という胸の痛みと、イケメンの証という意味の対決だ。
僕は目を閉じて想像する。
イケメンの証という意味が、敢然と、無謀にも、肉体の痛みに立ち向かい、そして、あっけなく、敗れ去る姿を。
耳をすますが、息子からの返事はない。
負けたのか。
いや、善戦している最中か。
この世界では、あちこちで、肉体と意味の戦いが繰り広げられている。
そして、いつだって、意味は不利だ。
がんばれ、意味。
肉体に負けるな。
うぅ!肺が痛い。
この痛みの意味を考えて、僕も、無謀にも、果敢にも、肉体に立ち向かうとしよう。
痛みの意味
痛みとは 生きている証拠
痛みとは 優しさの出発点
痛みとは 人間の愛すべき不完全さ
痛みとは 自己と世界をつなぐもの
意味を見出すというのは、人間にしかできない、頼りないけど貴重な武器。
何度、肉体に負けそうになっても、それでも、人間は、意味で立ち向かうのだろう。
令和という時代に、僕らは、どんな意味を見出せるのだろう。
エッセイ「いつか、ここにあるもの。」、季刊誌「住む。」で連載中。最新のエッセイは、「住む。」最新号でご覧ください。http://www.sumu.jp/ ※本エッセイは、「住む。」70号に掲載されたものです。