迫り来る雨音【環境問題小説】
前日に降った雨が土の道路に水たまりを作り、そこを行く車が水を通行人にかけながら走り去っていく。
一人の青年が泥水をズボンの下半分にかけられて、それでも怒ることもなく喫茶店に入ってきた。
「リプトン1つ」
青年は愛想よく店員の女性に声をかけた。店員は悪戯っぽく笑いながら
「冷たい水は要らないの?」
と聞いてきた。このやり取り、もう1週間連続である。青年は
「要らない要らない」
と笑いながら断った。
青年は隣にいた客に会釈しながら挨拶をした。その奥の人にも挨拶をした。知らない人であっても、こういう場所では挨拶をするのが、ここの礼儀である。
更に反対側には15歳ほどの女性が座っている。彼女は隣国から出稼ぎに来た娼婦であった。その娼婦が1歳にも満たないであろう赤ちゃんを抱えている。赤ちゃんというか、黒人の子は赤ちゃんではなく、白ちゃんと呼ばれる。理由は想像の通りだ。その娼婦の子か定かではないが、青年には聞く勇気がなかった。普通、出稼ぎで一人暮らしの娼婦が朝から赤ちゃんを抱いているその状況なら、それは間違いなく親子である。娼婦はまだ15歳程である。青年は彼女にも挨拶をした。彼女は少し無愛想だった。
青年は明らかに他の人とは顔立ちが違った。白めの肌は黒髪とまつげを際立たせ、目は一重、鼻は低く、口は小さい。店員と他の客は皆、黒人である。白目と歯の白さは黒い肌ゆえに際立ち、シワは見えず、明らかな二重に高い鼻だった。
端的に言えば、そのことこそ、店員が青年に対してだけ、あたかも好いているかのように振舞う理由であった。
青年は左手に持っていた袋を隣の椅子に置き、慣れた手つきでスマートフォンをポケットから取り出しつつ腰を下ろした。
暫くして紅茶を飲んでいる青年の視界の端に影が入って止まった。青年は顔を上げて、にこりと笑った。
10歳にも満たない少女が立っている。青年よりも激しく汚れ、少し傷んでいるズボンとシャツを来て、かつ裸足だった。黒人の肌では足の指の爪もかなり際立って見えた。髪は綺麗に結ってある。ここの子はどれほど貧しく見えても、女の子は髪結いを怠らないようだ。
青年は少女に話しかけたが、少女は何も答えなかった。そして、足元を指さして何かを伝えた。青年はその言葉は分からなかったが、持ってきた袋の中から、街で買ったサンダルを取り出して少女に渡した。少女は礼を言って、後ろを向いて去っていった。青年は笑顔で少女を見送った。青年の心は晴れやかだった。
さっきの店員が近付いて来た。
「私にも靴を買ってよ」
これもいつもの会話だ。
「君は持ってるだろう?立派な靴を履いてるじゃないか」
ここまではいつもと同じだった。
ここで隣に座っていた少し強面の男性が話に割って入った。
「あの女の子も靴を持っているよ」
青年は少し驚きつつ困惑したように笑いながら、男性の方を見つめた。
「そんな、まさか。彼女は裸足でしたよ」
「裸足の子供がこんな道が濡れている日に、ほとんど土の付いていない足で歩いていると思うか?」
「……え、そうでしたか?」
「爪が見えていただろう。裸足で泥道を歩けば爪などすぐ見えなくなる」
衝撃であった。
「……」
「彼女は靴を入口にいる仲間たちに持たせて、君に靴をもらいに来たんだよ」
「なんの為にそんなことを…」
「君たち白人は、多くの黒人たちにとってそのような存在だということだ」
男性は淡々と話している。
「あの子はきっと君に貰った靴を誰かに売るか、家に飾るか、または好きな子にでもあげるかもしれんな。またはただゴミ山に投げ入れるかもしれん」
「いや、まさかそんなこと…」
「あり得ると思うぞ。明日、あの子がいたら足元を見てみるといい。前から持っていた靴か、または裸足で生きているだろうな」
青年はまだ少し疑うような顔をしていたが、驚きを隠せないまま持ってきていた袋を締めて、何の味もしない紅茶を一気に飲んだ。
翌日になって青年は同じ喫茶店に座っていた。少女はいない。毎日いる訳では無い。ただ、例の男性はやや遅く喫茶店に入ってきて、表情を崩さず挨拶をした。
「おはよう」
「おはようございます」
「昨日は言い忘れたが、私の名前はイブラヒムだ」
「初めまして。私はケイスケと言います。日本人です」
「ケイスケか」
その発音の良さに圭介は驚いた。いや、確かにこの国の人は初めて聞く日本語を復唱した時の発音が非常に良い。耳が良いのと、多くの母音を持つ言語を普段から話しているためであろうか。
「イブラヒム、聞いてください。昨日の少女のことです」
「あぁ、会えたか?」
「いえ、会えていません」
「私は昨日の夕方に見かけたよ。やはり君の靴は履いていなかった。手にも持っていなかったね」
それだけでは大切に保管している可能性もあるだろうと圭介は思った。
「ケイスケ、君はあの靴をわざわざ街で買ってきて少女にあげたのか?」
「はい。私がここに座っていると時々子供たちが裸足で通ります。その子たちが怪我をしない為にも靴をあげたいと思ったのがきっかけです」
男性は淡々と聞いている。
「それで昨日の少女にもあげたんだな」
「はい」
「君は今までに何人くらいにあげたんだ?」
「20人くらいだと思います。みんな、子供たちは笑顔で礼を言ってくれますよ」
「人からものを貰って礼を言わない人が世界にいるのなら、それは植民地時代の白人だけだろうな」
圭介は急に責められたような気がしてびっくりしたが、男性が冗談で言っていると気づいて気を取り直した。
「なぜ少女は要らない靴を私から貰ってると思うのですか」
「ステータスだよ」
「ステータス?」
「この国には白人は少ない。だから、白人からものを貰うということ自体がステータスなんだ」
「自慢できるのですか」
「君も気づいているだろう。白人はこの国ではそういう存在だよ。多くの黒人が白人からお金を貰ったりものを貰ったりすることをステータスに思っていて、そのためだったら昨日のようなことを平気でする」
「……」
「子供を見くびってはいけない。子供たちはあらゆる悪を持っているし、大人たちは子供たちに教えている。白人は何でもくれる便利屋だとね」
「本当ですか?」
圭介はまだ信じていないように笑っている。
「君、この街を歩いていて何か奢ってくれだの、買ってくれだの言われるだろう?」
確かにそのようなことは日常茶飯事だった。
「確かに毎日それはあります。ただ、他の黒人同士も冗談半分でそのようなことを言ってますよね?」
「友達や兄弟同士であればそれは言うが、初めて会ったような人には言わないよ。ただ、白人はいつもターゲットだ。それが仮に学生ほどの年齢であっても白人はターゲットだ」
ターゲットという言葉があまりにもストレートで圭介は少し引いてしまった。
けれど、実際にそうかもしれないとも思った。
「君が靴をあげた20人の子供たちの中で、その後も靴を履いてるのを見たのは何人だ?」
圭介は少し黙った。そんなことはあまり考えたことがなかった。
いや、最初にあげた子は次の日には履いているのを見た。先週見た時はもう履いていなくて…
「そうですね…最初にあげた子はしばらくは靴を履いていました。ただ先週会った時には履いていなくて、誰かに盗まれたと言っていました」
「ほう。その話は信用できるのか?」
「信用できる…と思います」
「分からんな。私にも分からん。ただ、そんなに簡単な話ではない気がする」
「どういう意味ですか」
「この地域での泥棒というものに対する嫌悪感は物凄いものがある。泥棒はあらゆる犯罪の中で最も許されない部類だ。それに比べれば嘘をつくことなど日常茶飯事だからな」
「それはつまり…」
「つまり、可能性の話だが、泥棒に盗まれたと考えるより、その子が嘘をついているというと思う方がよほど自然だということだ」
ここまで聞いて終始笑顔だった圭介は少し苛立つように言い返した。
「私の国では人を信じて生きるのです。その子が盗まれたといえばそれはきっと盗まれたのです。彼女が靴がないと言えば、それは本当に靴を買うお金がないのです。確かめようがないことに対して、嘘かもしれないと疑うよりも、そうだと信じることの方が私の信条には合っています」
イブラヒムは圭介の反論に少し驚いたように見えたが、それでもなお淡々としている。
「君の国のことに口出ししようとは思わないが、疑うよりも信じることを選択するのは、単にそれが簡単だからだとこの国では言われているよ」
圭介は黙った。
「ケイスケ、私は朝のこの時間から君と喧嘩するためにここに来た訳では無い」
圭介は自分もそうだとムッとした。
「ただ、君が昨日したことは幾らか私に疑問を持たせ、それは私がこれまで考えてきたことを証明する一つのエピソードだと思った」
イブラヒムは非常に抽象的に話した。圭介はその真意を読み取る努力など少しもせずにちょうど同じタイミングで考えていたことを言った。
「昨日の少女が仮に誰か他の子に、私があげた靴を譲っていたとして、その別の子の足を守ることができるのであれば、私はそれで満足ですよ」
「誰も履いていなかったとしたら?」
「仮にそれがただの飾りになっていても、それが捨てられていたとしても、ただのステータスだとしても、私は自分とあの子が交わした挨拶と感謝と笑顔で十分ですし、私はきっと使ってくれていると信じていますから、あなたにどう思われようと構いませんね」
男性は少しも表情を変えない。
「では、それがゴミ山に投げ込まれゴミがまた増えるとしたらそれは構わないわけか?」
圭介は少し考えてから反論した。
「そうは言っていません。ただ、そんなことないと思っています」
「では、君が靴を無料配布することで、この国の靴屋の収入が減ることについてはどう思うんだ?」
「私が靴をあげている子は靴を買うお金が無い子です。もともと買えない子たちなので靴屋の収入には関係ありません」
「では、その子たちが靴を買うお金を手に入れようと努力をしてお金を稼ぐという部分を君は奪っているとは思わないのかね?」
「靴を買う努力?その努力ができるのであれば、もっと他のことで成果を出せるように頑張って欲しいですね。そもそもお金がないのではいつになっても靴を買えないでしょう」
「もっと田舎に行けば、ゴミ山の中でお金になりそうなものを見つけて生活している子たちがいる。彼らは本当に裸足だ。彼らはお金を手に入れる手段を見つけ、その先で靴よりももっと必要だと思うものを買う」
「それは靴を履かないことの危険性を知らないからです。靴は大切ですよ」
「何かの病気になるからかね?」
「はい、怪我もしますし…」
「では、仮にそれが大切だとして、靴を与えた子たちはそれ以上に何かを得るのかね?」
「どういうことですか?」
「ゴミ山からお金になるものを見つけだしてお金を稼ぐ子たちは靴を買った先で他の色々なものを買うだろうが、君が靴をあげた子たちは他の何かを得る方法を知らないため、君に依存して生きていくことになる。次に靴を買う必要がある時に、その子たちはどうしたら良いんだね?」
「私がここにいたら私に頼んだらいいでしょう。またはその頃までに彼らの親や彼ら本人は何かお金を作る方法を見つけるべきです」
「では、君はその子たちがその方法を見つけるまでの間を助けようとしているわけだな?」
「その通りです。本来はそれを親がするべきですが、親がそれをできなければ誰かが何かの方法でやらなければいけません」
「なるほど。君はあの子たちが、この道を先の交差点にある学校に通っていることは知っているだろう」
「はい。知っています」
「その学校が無償でなく、親は教育費や教材、鞄など子供たちに買い揃えていることを知っているな」
「知っています」
「では、親はその時に靴を買い与えていないと思っているのか?」
「そう思います」
「その根拠は?」
「子供たちは靴を履いていない子ばかりですから。親は靴を履かないことのリスクを十分に知らないのではないですか?」
「低質な教育のせいでか?」
「そうだと思います」
男性は少し呆れたようにため息をついた。
「私の子は靴を持っていて、学校に行く前からもちろん持っていた。私は靴を履かない危険も知っているが、履くことのデメリットも知っている。君は知っているか?」
「デメリットですか?例えばどんなことですか」
「足が正常な形で成長することを妨げたり、足の裏が硬く強く成長することを妨げたりする」
何か言いかけようとした圭介を手で制しながらイブラヒムは続けた。
「根拠と言えるものは、私たちの先祖たちの教えと親の教育、自分の育ってきた過去でしかない。どこかの奇想天外な科学者がその証明をしているかもしれないが、それは知らんな」
また何か言いかける圭介を手で制してイブラヒムは話し続けた。
「確かにどこかの文明が持ち込んだガラスや金属製品のせいで、今の子供たちが歩く道を私が育った道と全く同じだというのは少し無理があるが、だからといってデメリットを無視したり、健やかに育つことを邪魔するのは違うだろうと思うよ」
圭介が言いかけようとした事へのイブラヒムの反論は全て終わった。それでも圭介は食い下がった。
「病気になれば取り返しのつかないことになるかもしれないです。それに今の靴というのは、足に良いように作られているはずです」
「変な形で成長するのであれば、靴を履くことで取り返しにならないことになる可能性だってある。それに君が彼らにあげたような街で安く売っている、中国やヨーロッパからの安価な製品がそれほど健康のことまで考えて作られているとは思えないね。それに、仮に日本人や中国人の足に合っていてもそれが我々アフリカ人の足にあっている保証もないし、子供たちの足の形は人によって違うとは思わないか?それが小さな違いでも無視して良いというのはいささか乱暴な考えだと思うがね」
青年は黙った。
イブラヒムは少し声音を変えて話し始めた。
「まず第一に子供たちは靴を履かない時の方が遥かに多い。持っていても履かない。靴は街に行ったり遠出する時に履くものであって、近所で遊ぶのに靴を履くやつはこの辺りではまずいないな」
「だから、それはあまりにも彼らが病気のことを知らないからです」
「それはそうだとも言える。ただ、君たちの国では、靴を履くことでどれほど足に良くないかを知っている人は少ないだろうな」
「それはそれほど大きくないでしょう?!」
圭介は苛立ちながら話している。
「そう言える根拠は?」
「あなたが言っているデメリットというのは殆ど聞いたことがありません」
「それは根拠ではないな。多くの人間は基本的に自分の健康に対して楽観的だ。従って、長期的な積み重ねによって身体が負担を受けていても、その悪影響について考えることは無い。そして、仮に靴を吐かなかった場合の悪影響について論ずることで自分の意見を正当化するようになる。違うか?」
「それはあなたも同じでしょう?」
「いや、少し違うね。君は他人の選択に対して干渉している。私は日本に行ったとしても靴を履いている少年を呼び止めて脱ぐように教育したりはしないよ」
圭介はまたしてもムッとした。全く納得できなかった。それをイブラヒムは察した。イブラヒムはサンダルを履いた圭介の足を指さしながら言った。
「多くの先進国民はそうだが、君の足の小指は薬指の下に潜り込もうとしているな。小指は靴を履いた時に、端の方で丸くいるように圧力を受ける存在だからだ。私の足は見ての通り、小指も薬指もほぼ並行に並んでいる。これが違いだ」
「それで私は何も悪影響はありません」
「どうかな。分かっていないだけかもしれないね。足は人間の部位の中で最も過酷に使われる場所で、本来は五本の指でバランスを保つべきだが、君の足だと薬指は半ば仕事放棄をしていて、残りの四本が過剰労働しているように思える。過剰に働くというのは良くないと思わないか?」
圭介はこのくだらない話から逃れたいと思い始めた。
「とにかく、私の善意に対してあなたが色々と言うことはできません。私には私の考え方がありますから」
イブラヒムは少し残念そうな顔をした。彼はネスカフェを飲み干して、店員にお金を払ったが、席を立たずにスマホを触っていた。
圭介は自分の善意が否定されることに対して不愉快な気持ちになり、またしても味のしない紅茶を喉に流し込んだ。店員を呼んで、いつもの何倍か低い声で釣り銭のないようにお金を渡して、足早にその場を去った。
と、それをイブラヒムは追いかけてきて、
「ケイスケ、時間あるか?」
と呼び止めた。ケイスケはこの馴れ馴れしさに少し呆れつつ、無い!と即答しようとしたが、無いわけでは無かったために
「何ですか?」
と答えてしまった。
「ちょっとついてきてくれ。いや、3分歩くだけだ」
ケイスケは少し怪しがったが、3分ほどの近場なら良いと思ってついて行った。本当は断りたいところだったが、彼は生粋の日本人であった。
3分間、イブラヒムは時々圭介がついてきてるか確認するように少し気にかけながら、ひたすら何も言わず前を歩いた。道の脇にいる友人たちに挨拶をしながら歩いた。イブラヒムが挨拶した人には圭介も一応会釈した。
さて、少し多めに歩いた気がしたが、イブラヒムは角を曲がって広場に出た。広場と言っても、広々とした場所と言うだけで、何もなく、あるのは自然の造形かと思われる地形の凹凸とその凹み部分に溜まったゴミであった。その一番大きなゴミ捨て場に歩み寄って、イブラヒムは立ち止まった。圭介は何を言われるかを察して帰りたいと思ったが、ここまで来て帰る訳にも行かず、イブラヒムと若干の距離を取って立ち止まった。
そのゴミ捨て場は圭介がこれまで見てきたゴミ山の中でも最も大きく、それは幾らか衝撃的なものだった。社会の教科書で見るような大きさだった。ゴミを漁る子供たちがいる訳ではなかったが、それは時間帯のせいかもしれないとも思った。
「ケイスケ、もう少しこっちに来て何が落ちているか見てみろ」
ケイスケは嫌だと思ったが、多少興味もあって寄って行った。
布の端切れ、生ゴミ、ビニール袋、安いサンダルの靴底、まだ着られそうな服、紙切れ、まだ使えそうなノート、下着、ペットボトル、鞄、ぬいぐるみ、タイヤ、壊れたほうき、控えめに言って全てであった。圭介がよく知るキャラクターのぬいぐるみもあった。それを送ってくる国など限られているはずだ。
ケイスケは強がって、そうだろうなという表情をした。
「君は何を思う?」
「ゴミが多すぎます。これを燃やしているのなら健康には良くない、埋めているのなら自然にも良くないです」
「他には?」
「国はもう少しゴミ処理について力を入れるべきです」
「他には?」
「多くの人がこのようなゴミの状況を……」
「私は悲しい。私の国だから。昔はこうではなかった。昔の話をしたい訳では無いが、いつからかこの国は、自然に戻らないゴミだらけになり、それをこうして放置するようになった。私は、色々なことに文句を言うよりも前に、まず悲しく思う」
圭介はそういうことを聞いているのかと思ったが、黙ってイブラヒムの続きを聞いた。
「君は私ほど悲しく思っていないだろうと思うよ。無理もない。そういうものだ」
「私も悲しくは思いますよ」
イブラヒムはそれには答えなかったが、決して感情的になっているわけではなかった。
「古着ビジネスの終着駅はここだよ。君たちの国から送られてきた物の行き着く先は間違いなくここなんだよ」
「……」
「自称先進国の人間が、使い終わったという服やものを私たちの国に送るようになってしばらく経つが、その結果はこのゴミ山の増大を招いた」
圭介は何も反論しようとしなかったが、イブラヒムは圭介を手で制して続けた。
「古着ビジネスはビジネスなんだよ。それを分かっているか?古くなったものを捨てようとする時に、まだそこに価値を見出す人間に譲るという発想は良いものかもしれない。しかし、それは結局のところバランスを崩しているに過ぎない。古着を無料で配れば、そこに人は殺到する。ここで服を売っている人間は売上がなくなる。布を編んでいる人間は売上がなくなる。人々が服を買うためにお金を使わなくなるということは、それだけ服に関する仕事がなくなるという事だ」
イブラヒムは依然として淡々と話している。圭介はゴミを見ながら聞いている。
「白人たちはただでものをあげることを良いことだと言う。ただ、君も知っているだろうが、良いことばかりのことなどない」
「無料で服をあげることの悪いことは何ですか」
「物を大切にしなくなる。白人がいつもくれるのなら、多少壊れるのが早くても、次のをまた貰いに行けば良いと思うだけだ。お金を作って、それを使うという痛みを知らなければ、物を大切にするはずはない」
「では、売れというのですか?そうなればお金が無い子たちは買うことは出来ないでしょう?」
「靴は要らないという考え方が私にはあるから、服の話をしよう」
「分かりました」
「服であっても結局は同じだ。服を買うためのお金がなければ、服を買うための努力をしなければいけない」
「それまでに少しは支援することが彼らのためになると言っているのです」
「その少しの支援をここにいる周りの親や大人達はしないと言うのか?」
「親がいない人だっているでしょう!」
「同じことだ。我々には親のような存在はたくさんいる。君たちが親戚や近所の人と呼んでいる大人達は、この国では親同然だ」
「それもいない人がいるでしょう」
「いや、この国にはそんな子はいない。君はいつまで君の物差しで話をするんだ。君がここに住んでいなかったとしても、仮に日本にいたとしても、なんでも自分の物差しで語ろうという姿勢が間違っていると思うがね」
イブラヒムはキッパリと断言した。
「では、この国に先進国から古着や物を送って無料で配布している団体の活動は無意味だというのですか?」
「端的言えばそうだ。もっと言えば害になっている。目の前だけ見れば、ものを貰ってステータスを得て笑顔で礼を言う子供と、その忖度を知らずに喜ぶ大人の両方が利益を得ているから良いように見えるが、長期的に見れば結局のところこの国のためにはなっていない。子供たちのためにもなっていない。君たちの自己満足だ」
圭介は自分はその活動に参加していないのに君たちと語られるのに少し違和感を覚えたが、反論しなかった。
「何故そのような見方をするのですか?あなたは悪いところばかりを見すぎていますよ」
「それは違うな。私を含め、この国の国民は、他の多くの国の国民もそうだろうが、悪い所があれば正す努力をする。服も買えない家の子供がいれば、そのような家庭を助ける方法を必ず見出す」
「例えばどんなことですか?」
「近所の大人たちは必ず助けようとする。国が安定すれば制度を作ろうとする」
「それができていないから、国際的な団体がサポートをしているのではないのですか?」
「初めはそうだったかもしれないな。君が靴をあげること思いついたように、素直で誠実な気持ちだけで始めたかもしれない。けれど、君だってそうだが、問題の一面しか見ていないじゃないか。それに、今では大して問題になっていない部分を問題だと指摘すれば、幾らでもこのビジネスの幅が広がることを君たちは理解してしまった。だから言っているんだ。これはビジネスなんだ。お金を発生させるために、他国の子供たちの笑顔と日常を売っているビジネスなんだよ」
圭介はあまりにも悪く言われてまた少し腹が立ってきた。
「そうだとしても、私はお互いが利益を得ているのなら良いと思いますよ」
「短期的にはそうだが、それが長期的には子供たちに、この国は白人たちの助けによって生きているという観念を植え付け、自分たちの力で何かを成し遂げるという機会を奪い、物を大切にする気持ちを失わせ、終いにはこの国の土地を壊すことになると言ってるんだよ。子供たちが得ているのは、意味を持たない瞬間的なステータスと、不必要な量の服やもの、それだけだ」
「不必要な量ですか?」
「そうだ。だからこれだけの物がここに捨てられるわけだ。一ヵ月に一度、ここのゴミは燃やされる。それでもこれだけの量のゴミが既に溜まっている。あまりにも要らない量があるということだ」
圭介はその事実は知らなかった。内心驚きながら、イブラヒムの顔を見た。まだ淡々としている。
「君は正義を振りかざしてはいないか?」
「……」
「常識という名の鞘の中にある正義という名の剣を君は振りかざしてはいないか?」
その抽象的な意味を理解するのに少しだけ時間を要した。
「君は自分の物差しで生きているんだよ」
「人は皆そうではないですか」
「そうだ。違うのは、自分の物差しであることを自覚している人と、自覚せずに正義の剣を振り回す人がいるという事だ」
圭介は黙った。
「では、黙って指を咥えて可哀想な子供たちを見ておけというのですか?」
圭介は少しムキになっているように言った。
イブラヒムは黙った。それは言葉探しをしているようで、どこか呆れ返っているようで、そしてどこか悲しくも見えた。
風が吹いている。このような広場ではよく風が通った。どこから風というのは始まるのだろうか。どこまで吹いていくのだろうか。いや、終わりなどないのかもしれない。
ゴミと埃が舞い始めた。軽いビニール袋は鳥のように飛び始める。紙切れは毒の無い蝶のように激しく、そして美しくなく飛ぶ。
イブラヒムが一気に強くなった風の方を向いて言った。
「あと10分で雨が来る。帰るか?」
「あなたの答えを聞いたら帰ります」
イブラヒムは少し考えた。
「新しい考え方を取り入れることに対して柔軟とはいえない君に何を言っても意味は無いかもしれない。君は私の言葉を聞いているようで聞いていない。それでも聞くというか?」
「聞きます。答えてください。困っている可哀想な子供たちを見て、黙って指を咥えていろと言うのですか?」
イブラヒムは一息ついてから溜め息をつくように話し始めた。淡々とというよりも、少し小さな声で。
「可哀想と言ったな。昔、この大陸では黒人たちが毎日を生きていた。部族という単位で、お互いを尊重し、時には喧嘩もしたが白人達がする戦争ではなかった。ある時、白人達がこの国に入り、私たちの社会は壊された。白人は私たちを奴隷として連れ帰った。白人は自分のことを文明人と呼び、私たちのことを野蛮人だと言った。野蛮な生き方をしている人間は可哀想で、より良い生活ができるようにするために可哀想な黒人をヨーロッパやアメリカに連れて行ってあげるのだと。」
圭介は黙って聞いていた。イブラヒムの声が小さいため、少し歩み寄って聞き続けた。
「あの頃も君たちは私たちを可哀想だと言った」
イブラヒムは少し悲しそうな目をしているように見えた。
「黒人を騙した白人は知っていた。私たちがここでどれほど豊かに生活しているかを知っていた。彼らは私たちと同じだけ賢かったから、私たちが可哀想だと本心では思っていなかったかもしれない。けれど、自分たちのビジネスを作るためにそう言った。奴隷商人は黒人が白人と何も変わらない人間であることを知っていたが、売る時は客に少し器用な下等動物だと説明した。アメリカで黒人を雇った人間たちは黒人のことを下等動物だと信じ、可哀想に思い、または可愛がって雇った。全員が全員劣悪な環境ではなかったかもしれない。けれど、扱い方は人間がされるべきものではなかった」
ここまで来て一息ついた。
「可哀想とは何だ?それは君たちがやりたがる上から目線の自己満足ではないのか?」
少し攻撃的な口調になった。
「君たちは恵まれた国に育ったと教えられてきただろう。私にとってはこの国もとても恵まれている。君たちの常識では生活に潤いはないかもしれないが、私たちの常識では君たちの生活こそ変だとも思う。常識とはそういうものだ。単に偏見に過ぎない。君たちは自分たちこそが恵まれていて、私たちの国の子供を見て可哀想だという。日本で硬い靴を履かされて、重い荷物を持たされて学校という名の牢獄に殆どの日を費やすことを強制されて、親に会う時間を奪われた子たちに私は同情するよ。けれど、口出しはしない。何が正しいことか私には分からないからな。物事には様々な面がある。その全てを見ることはできない。優れた人間にもできない。まだ分かっていないことが多すぎる。これから先もずっとそうだ」
また少し淡々とした話し方に戻った。
「自分たちこそが恵まれていて、自分たちこそが人を助ける側に立たないといけない。異国の地の、異なる文化、異なる気候、異なる民族に異なる習慣、そしてそれを作ってきた歴史。それらを学ぶには人生はあまりにも短い。だからできないんだよ。助けることなんて何もできないんだ。手を出せばそれだけ問題が増える可能性だってある。お金を渡すことだってそうだ。変に権力者が力を持って利権を作り上げるだけかもしれない。君たちの国だってそういう問題はあるだろう」
圭介は黙っていた。表情は少しも変わらない。イブラヒムはもはや風に向かって話しているようだった。
「君たちは、きっと君もそうだが、物を与えた人間はその後を見ないやつがあまりにも多い。そのものがどこに行くのか、誰かを本当に助けたのか、そして、その子たちの人生はどうなるのか。本当に助けたいと思う人間はそこまで見るんだよ」
ここまで言ってイブラヒムは圭介の方を向いた。
「だから、私は君たちの国のやり方も、君のやり方も間違っていると思う。後まで見る覚悟がないのなら、手を出すべきではない。指を咥えて眺める方が良い。それだけの存在でしかないんだ。酷い言い方に聞こえるかもしれないが、君たちにできることなど、遠く日本からできることなど何もない。ここに来て少しこの国を知ってもできることなどない。何もないのだよ」
圭介は少し反論した。
「ある日本人が紛争地域に井戸を引き、農園を作り、多くの貧困層の人々を救ったことがあります。彼のような生き方ができれば、私たちの助けも意味があるはずです」
「君はその人のようになれると本当に思っているのか?何も見ず、何も考えず、目の前の素直そうだと侮った子供に騙されるような人間が、そんな生き方をできると思うのか?前例があるからそれになれると思っているのか?なれはしないよ。目指すべきでもない。彼の人生を見くびるな」
イブラヒムはまるで彼のことを知っているかのように少し怒りを混じえて反論した。
「国際協力というのだろう?その団体にいて、貧しい子たちに手を差し伸べようと言い始めた人間が、5年も立てばビジネスクラスで私たちの国にやってきて、私たちが死ぬまで泊まれないようなホテルの上階に泊まり、私たちを見下ろしている。そうなるんだ。大抵はそうなるんだよ、人間というのは」
イブラヒムは真っ直ぐ目をそらさない。圭介は額の辺りを見て誤魔化している。
「君たちは次なる貧困ターゲットを探し、やれ紛争孤児だ、虐待孤児だ、社会的弱者だ、貧しいだ、災害孤児だと言い続ける。新たなお金の匂いを探し、それは単にターゲットを探しているんだよ。お金になるターゲットをな。君を騙して君からサンダルを貰った少女と同じだよ」
圭介は何も言えないでいる。
「ビジネスをやるやつは昔からいる。奴隷商人と同じだよ。けれど、本当に厄介なのは、常識という名の鞘から正義という名の剣を振りかざす、善意でもって関わってくる奴らだ。奴隷を雇って動物のように黒人を扱った奴らは、何の悪意もなかった奴もいるだろう。本当に厄介なのはそういう奴らだよ」
圭介は表情を崩さない。
「今、自分のことを言われていると思っているか?思っていないだろう?」
「……?」
「古着ビジネスで言うと、遠い国から自分たちがゴミにしようとしているものを、わざわざこの国に送って子供たちに届いたと喜んでいるだけで、それ以外のこともその後のことも何も考えはしないような人たちのことだよ。何の悪意もなく、むしろ善意でもって活動する奴らが、最も厄介で問題の根源にいるんだ。君だってそうだが、自分のやっていることに自信こそ持つが疑うことはせず、いつも自分の良いように解釈して、目の前の満足感があればそれ以外のことは目を向けず、間違いを指摘されても、それを自分の事として考えることもしない。自分はこの国にいるからか、頼りがいのありそうな団体がやっているからか、違う。違うよ、自己満足に過ぎない。可哀想だと?それが君たちがずっとそこから降りることはないんだ。君たちは自分より経済的に貧しい人間を下に見ている。上から目線の自己満足に過ぎないだろ?」
圭介は圧倒されてしまった。イブラヒムの目には何かが宿っていた。
「君たちが手を出した場所の子供たちは、君たちの下で生きることを選ぶんだ。この国は白人たちからまだ独立できないでいる。君たちは子供たちを飼い慣らしたようなものだ。本当にこの国とこの国の人達のことを考える人間が君たちの中に少しでもいたら、この国はもうとっくに独立している」
圭介は何も反論できなかった。
彼は納得しただろうか。理解しただろうか。自分は本当に助ける側になれると今でも思っているだろうか。自分は他とは違うと、今でも鷹を括っているだろうか。幾らか後のことを見るようになっただろうか。幾らか助けるという意味を理解しただろうか。幾らか常識を疑うことを覚えただろうか。
固まりきった常識という名の偏見を溶かして今一度考え直すには、もう少し時間が必要かもしれない。彼は見たいように見て、聞きたいように聞いて、考えたいように考えてきた。その積み重ねはあまりにも長く、そして多く、固まってしまった。そう習ってきた。そう思ってきた。
悪意でなされる悪行は許されないものであるが裁くことができるものでもある。ただ、善意でなされる悪行は厄介で裁きようのないものである。
雨が降ろうとしている。遠くで稲光が叫んでいる。
これは言わば、日本にいた頃の私の物語である。
これは言わば、途上国に手を出す先進国民の物語である。
自国の政治、経済、人、社会、その良い所も悪い所も見てみると良い。自分の生活の範囲より少し先にあるそういうものを、先入観持たず見てみると良い。私たちの国は私たちの国で問題を多く抱えている。そんな国を作った人間の一人が、そんな国でしか育っていない人間の一人が、他国に何を教えられるというのだろうか。社会が問題を抱えれば、そこに住む人々がそれを解決する。それ以上に適したやり方などない。
他国を尊重すべきである。高いところに生まれたという愚かで狭い思考から離れ、上から目線の自己満足をやめなければいけない。
これは、私とあなたとあなたの周りの人の話である。
ビジネスにはターゲットがいる。古着ビジネス、それは消費者の感情に付け込んだ、大量消費社会の失敗である。
《終》