ゴミを拾うことは自己満足なのか
自己満足という言葉が少し前に流行った。
大抵の場合、悪い意味で使われるが、本当は自己満足をすることが生きていく上で大切なことであると、それを言うだけの回である。
私は自己満足でやっている節もある
「ゴミ拾いをすることは自己満足である」、そんな心無いコメントを散見するが、それはある意味で正しい。
私が、ブルキナファソに着いたのは4月半ばであった。それから3日と経たないうちに、人々が当たり前にポイ捨てをする国だということを知った。空や川、土の中、路上の至るところにゴミが溢れていることを目の当たりにした。日本にいる時だって、ゴミ問題の重大性は知っていたが自分の生活の範囲以上で取り組んだことはほとんどなかった。
一度、大学の所属している団体の活動の一環としてゴミ拾い活動を催したことがある。10人ほどでゴミ拾いをした。場所は山口県下関市の角島というエメラルドグリーンの海を見渡すことができる観光スポットの砂浜である。知っている人も多いだろう。
写真のように高い所から海を眺め、その美しさを堪能する場所だ。文句無しの美しさがある。しかし、私は敢えてこの場所で、誰も行かない砂浜に降りてゴミ拾いをした。想像できるだろうが30分足らずで4つの大きな袋が満杯になるほどだった。こんなにも美しく見える海にあって、こんなにもたくさんの人が近くまで訪れている場所に、こんなにもゴミが落ちているのだと参加者たちに知って欲しかったし、実感したかった。念の為言っておくが、観光客が捨てたゴミと言うより、流れ着いたゴミである。しかし、どうであれ同じことである。ゴミが環境を汚染していることに変わりはないのだから。
この体験を除けば、日本でゴミ拾いをしたり、環境問題に取り組んだことはないと思う。しかし、この国に着いて、大量のゴミを目の当たりにした時、何かしないといけないという衝動に駆られた。この重大な問題に遭って、何もせずに9ヶ月間もこの国でゴミを横目に過ごすことは、自分自身が自分を許さないと感じた。だから、この問題に取り組んでいる。
その先でこの国ならではのことや、私がこの国に9ヶ月しかいられないことも相まって、アプローチの仕方や日々のやり方を自分で考えないといけないという所から始まったが、それは前回までにある程度書いたと思う。
23年間で培ってきた経験と学んできたこと、そのどれが今回の取り組みで生かされるか分からないけれど、どんな結果になろうとやらなければいけないと、私自身が私自身に向かって言っている。心が言っている。
9ヶ月、この取り組みを続けた先で、私は私自身の尽力に満足するだろう。このブルキナファソという最貧国において、この国のために、そして地球環境のために尽力した自分に満足するだろう。私自身が私自身に課した「目の前の問題に取り組まなければいけない、やらなければいけない」という声に応えて行動したことに満足するだろう。今の段階でも多少はしている。だから、その意味でこの活動も自己満足である。
ゴミ問題に取り組む人々へ、そうでない人々へ
地球環境のため、この国のため、子供たちのため、動物のため、目的に挙げられるその全てが事実であり、尊いものであると思う。しかし、活動家たちはそんな大きな目標を掲げながらも、自分たちの活動がとても小さいものであることも、まだまだ全然足りていないことも熟知している。誤解を恐れずにいえば、取るに足らないほど小さな活動であることも分かっている。ただ、それでもやる。
1つには夢があるから。どんなに小さな活動であっても、やっていないのとは違う。0と1の差は1と2の差よりも大きい。そして、人々が取り組み、それを見て、知って同じように取り組む人々がいる。そういう小さなものの積み重ねが、いずれ「取るに足らないもの」を「取り上げるべきもの」になって、重要な活動としてもっと世の中に認知される日が来ることを夢見ている。そして、その先で、国やそれ以上の規模のもっと大きな力で環境問題の根幹に取り組むことができる日が来ると夢見ているし信じているから、だから彼らは自分の微力さを感じながらも活動を続けている。
そして、もう1つ。自己満足である。この世の中には、特に日本には自分がポイ捨てをするような人間になりたくないと思えている人が大勢いるだろう。それはポイ捨てをする自分のことを自分自身が許せないからであろう。ただそれだけの事だが、それは重要な考え方だ。ポイ捨てを自分の中で禁止した人の中で、ある時、一部の人がポイ捨てされているゴミを横目に通り過ぎることを、自分自身で許せなくなる。そうして、ゴミ拾いが始まる。仮に毎日ゴミ拾いをしたら、時間があるのにゴミ拾いをしない自分が嫌になる。だから、ゴミ拾いを続ける。自己満足と言えば自己満足である。自分の正しいと思ったことをできるようになろうと、ただそれだけの事であるが、これは生きていく上で大切なことだと思う。自己満足をすることは大切なことである。
冒頭で「ゴミ拾いをすることは自己満足である」と言うコメントを紹介したが、そう考える人々に考えて欲しいのは、
環境問題の重要性もゴミ問題の重大性も分かっていながら、それに対して何のアプローチもしない人々は自分に対して何も満足できていないだろう
ということである。そして、
仮に問題の重要性を分かっていながらにして、それを無視する自分を許せている人と、そんな自分を許せずに行動する人と、どちらになりたいか
ということである。
前回の記事で、忙しかったり、大きな一歩が踏み出せなかったりする皆さんに、誰でもできる事として、SNS上でゴミ拾いなどの活動をしている人に向けての高評価を押したり、感謝のコメントをしたりすることをお勧めした。
私たちはできることを既に証明している
このブルキナファソという国にいて思うのは、地球規模の問題だからこそ、誰がやったとしても微力すぎて「取るに足らないもの」を抜け出すことは非常に難しいということだった。しかし、視点を変えて考えると、そんな小さな力しか持たない人々が、自分勝手に行動し続けた結果として地球規模の問題を作ってしまったと気がつく。良い意味でも悪い意味でも、小さな力が大きなことをやってのけるということを、私たちは既に証明している。
結局のところ、この国でプラスチックゴミを1つ拾うのも日本でプラスチックゴミを1つ拾うのも同じようなことである。この地球という規模での活動を目指して、地球という規模での環境問題改善を目指しているのなら同じことである。取り組み方が違っても同じ志である。
今日、どこかで自分の意思で持って、ゴミ拾いをした人を賞賛しよう。自己満足できる人に敬意を払おう。
先日、魚屋の前で1.5メートル×1メートルほどの大きなプラスチック袋を拾った。魚の生臭い匂いがしていた。
近くにいた人が「それモネラとか付いてて危ないよ」と言ってきたが、「知ってるよ」と言って私は拾った。そんな袋が6個もあって嫌だったけれど拾った。子供たちがたくさんいる前で、拾わずに通り過ぎたくはなかったから。家に持って帰って、太陽と風の中で1日干した。最初はたくさんのハエが集っていたが、彼らはそれを綺麗にしてくれた。匂いもなく、いずれ草鞋作りに使えるだろう。
そういうゴミに病原になるような菌がついていることを知っていながら、子供たちが走り回り、大人たちが歩き回るそんな所に、そんな危ないゴミがポイ捨てされることは良いのだろうか。時々、この国の人を本当に理解できない時がある。しかし、私はそんな時に彼らの考えを理解することよりも、先に進むことを選ぶ。昨日、同じ道を通った時、同じようなゴミが落ちていた。私が拾うからそこに捨てるのか、私など関係なく捨てるのか、私のことに気がついていないとは思えないが、敢えて拾わない日を作ってみようかとも思ってしまう。