牧師といのちの崖と映画監督
ドキュメンタリー映画を作っている監督にインタビューさせてもらえることになって、それも突然決まったものだから、監督に話を聞いてから監督作品を観る、という大変失礼なことをしてしまったのだけども、もし逆だったら、全然違うことを監督に聞いていたと思う。だからどちらがよかったということではないけど、ただ私の薄っぺらい感想を聞かせることにならなくてよかったのはちょっとだけマシだった。
ドキュメンタリー映画を作るというのは、何をするということなのか。監督は「思考のプロセス」だと言った。自分の生きる世界のわからなさをわかりたいと願う。引っかかりのある題材を取材していくうち、新しい引っかかりに出会う。思考して思考して思考し続ける。言葉だけでは思考し続けられない。その場にいるから感じることのできる空気感。思考と肉体。その人と人の間の空間にある目には見えない情報を、映像として表現しようとする。
「牧師といのちの崖」は、自殺の名所となっている崖の近くにある教会の牧師と、崖で牧師に保護されその教会で共同生活をする人たちの話。人はなぜ孤独なのか、人はなぜ助けて欲しいと思うのか、人はなぜ自ら死を選ぼうとするのか、そして人はなぜ人を助けようとするのか。映画を見てもわかりやすい答えはない。ただ、人は孤独を感じ、助けて欲しいと思う、時には自ら死を選ぼうとするほどに追い詰められる。そして、助けたいと思う。ある人には複雑で、ある人には単純な世界。生き辛さ。
助けてほしい。でも助けてほしくない。助けるって何。
生きたい。存在していていいのだと思いたい。
確かに存在している。
彼は何かを伝えたかったのではないか、と監督が言った。監督はそのことをずっと考えているんだな、と思った。観る人に、一緒に考えてほしいのだと思った。わからない世界を観ることは、それを撮る監督のわからなさや苦しさを体験することに思えた。
わからないことだらけのこの世界。
世界を決めつけるのはいつでもまだ早すぎる。
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