見出し画像

責められて育った子が主体性を失う理由


主体性とは、
自分の意志や判断に基づき、責任を持って行動する姿勢、だと思っています。

自分が自分である為に、
人生が自分のものである為に、

主体性は欠くべかざるもの、だと思うんです。

それ程、重要なものなのに、主体性を獲得する事無く生きる人は沢山います。
何故でしょうか。

述べた様に、主体性は、
自分が自分である為に、また、
人生が自分のものである為に、
必要不可欠なものです。

主体性を獲得出来ない人の傍には、
その人が自分であっては困る人がいます。
その人が自分の人生を歩んでは困る人がいるのです。

それは多くの場合、その人の親です。

その親は、無価値感に苛まれる人です。
その親は、自分には価値が無い、という強固な思い込みを持っています。

無価値感に苛まれ続ける事は、とてつもない苦しみです。

親は、苦しみから逃れる為に、子供を苦しみから目を逸らす道具にします。

親子関係に於いては、力関係は親が圧倒的に強く、子供は徹底的に無力です。

その圧倒的に強い立場に物を言わせて、親は子供を、自分の人生に取り込みます。

自分が抱える無価値な思い込みから目を逸らす道具にする為に、
子供を自分の人生に取り込みます。

道具にするには子供が、自分として自分の人生を歩んでは都合が悪いのです。

だから親は子供に、
自分であるな、
自分の人生を歩むな、
といった破壊的なメッセージを送り続けます。

メッセージは時に、言葉であったり、時に、態度であったり、様々な形で絶え間なく送られます。

言葉なら、馬鹿だ、何も出来ない、役に立たない、などといった否定的な文言をぶつけ、
子供に、自分には価値が無い、という思いを擦り込みます。

態度なら、呆れた様な表情や、軽蔑、落胆した様子などを見せる事で、子供に恥じの感情や罪悪感を擦り込みます。

無関心や、過干渉、過保護なども非言語的なメッセージです。

無関心は、子供に、自分は取るに足りない、どうでもいい存在だ、という思いを、
過干渉、過保護は、親がいなければ自分は何も出来ない、生きて行けない、という感じ方を、擦り込む事になります。

生まれてからずっと、浴びせられ続けた破壊的メッセージは、

自分であるな、
自分の人生を歩むな、

というメッセージです。

主体性は、

自分である為に、
人生が自分のものである為に、
必要不可欠なもの、です。

浴びせられたメッセージは、主体性を持つ事と、正に真逆のメッセージなのです。


健やかな心を持つ親は、子供が巣立つその日まで、子供を守り育もうとします。
子供が自分の脚で自分自身の人生を歩める日が来る事を願います。

無価値感に苛まれ、破壊的メッセージを浴びせ続ける親にとっては、子供が巣立つ事自体が親に対する反逆なのです。

子供は親が抱える無価値な思い込みから目を逸らす為の道具なのですから、

子供が自分自身の人生を歩む事は、親を裏切る事、あってはならない事です。


主体性を獲得する人が必ず通る通過点として、反抗期があります。

訪れる時期や、現れ方には、個人差がありますが、

一般的には、幼児期と思春期に一回ずつ、計二回の反抗期が広く知られています。

健やかな心を持つ親は、反抗期の子供に手を焼きながらも、
同時に子供の成長を感じ、子供を頼もしく感じたり、いじらしく思ったりします。

無価値感に苛まれる親にとっては、子供の反抗期は親への裏切りでしか無く、

親は子供を批難したり、無視したり、抑え込んでしまおうとします。

自分が無価値感から目を逸らす事に必死な親は、そもそも子供の心の成長には関心がありません。

只々、子供は親の人生に取り込まれて、道具として生きるものだ、と思っています。

中には、子供が幼い頃から「ウチでは反抗期なんか許さない」と予防注射を打つ様に擦り込む親もいます。

結果として、反抗期を抑え込まれたり、不完全な反抗期を過ごした子供は、通るべき通過点を通る事が出来ず、

主体性を獲得する事に失敗し、親に呑み込まれ、道具として親の人生を生きます。

自分の人生を取り上げられた子供が、あまりの生きづらさから、不登校や自傷行為といった様な問題行動を起こしても、

親は「ウチの子は反抗期が無い程素直な子なんです。」と言ったりします。

その親にとっては、反抗は親への裏切り、子供が自分である事は悪、子供が自分の人生を歩む事は、とんでも無い親不孝なのです。


そうやって生まれた時からずっと、自分である事、自分の人生を生きる事を徹底的に禁じられ、

親の人生に呑み込まれ、道具として生きた人は、主体性を獲得する事が出来ません。


主体性は、本能の様に、生まれながらに備わっているものでは無く、

述べた様に、健やかな親子関係、肯定的な養育に後押しされて、獲得、するもの、と言えます。

つまり、自分として自分の人生を歩む為に必要不可欠な、主体性、の獲得は後天的で環境的要因に依るところが強いのです。


主体性無くしては、自分として自分の人生を歩む事は叶いませんが、

それは後天的で環境由来のものであるのですから、

何故今、自分の人生を歩む実感が薄いのか、という事から紐解いて、

自分と向き合えたなら、

主体性を獲得する事は出来るのです。


親は後押しする能力を持ちませんでしたが、

今度は自分が自分の親になり、

自分として、自分の人生を歩む後押しをする番です。

自分が自分の、最高の味方になる、と決めて欲しいのです。

親であり、親友であり、恋人でもある、最高の味方になって、

自分の背中を押して欲しく思います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム












この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?