「自分軸」という言葉は、今では友人同士の何気ない会話にまで使われる程ポピュラーな言葉になった、と感じています。
自分軸で生きるとは、他者に左右されず、自分自身の信念や価値観に基づいて生きる、といった意味合いだと思っています。
平たく言うと、ブレない生き方、を指している、のでしょう。
それを、我を通す、とか、ゴリ押しの姿勢、とかと履き違える人は少ないと思いますが、
自分軸で生きようとして、強くなくてはならない、ブレては駄目だ、と無意識に力が入っている人は少なく無い様に思うんです。
今日まで生きて来た自分をいとも簡単に、弱いから良くない、とジャッジして、
自分軸、という言葉に合わせる為に、無理をするのは、
「自分軸」という言葉によって、本当の自分から離れている、要するに、既にブレている、と思うのです。
先に述べた、自分軸、の意味が、私の解釈で大きく間違っていないなら、
少なくとも、自分自身の信念や価値観がしっかりと心に根付いている事が、自分軸で生きる為の必要条件である様に思います。
信念や価値観が心に根付くには、その前提として、先ずは、
心に確かな【自分】という意識、が充分に育っている必要がある、と思っています。
つまり、心に【自分】が育っていて初めて信念や価値観が根付き、
信念や価値観が根付いているからこそ、自分軸で生きる事が出来る、と思っています。
心に、確かな【自分】という意識、が育っているか否か、という事は、
生きる上で、実に大きな事ですが、【自分】が育っていない、という事に、気が付くのは、なかなかに難しいと思っています。
先に触れた、自分軸で生きようと無理をする人などは、
おそらく、自分の心には【自分】が育っている、と思っていますし、
信念もあれば価値観も根付いている、と思っています。
しかし、その実、心の中の【自分】だと思っているのは、心の中に居座る、他者、であり、
信念や価値観は、その心に居座る他者が持ち込んだもの、だったりします。
つまり、心に【自分】は育っていないのに、【自分】がある、と本人は感じている、という事で、
この状態の事を、擬似自己、と呼ぶ事もあります。
擬似自己とは、簡単に言えば、
本来の自分を失っていて、代わりに偽りの自己を形成して生きる心理状態の事を指します。
自己が無く、自身への肯定感情を失っているのですが、さも【自分】があるかの様に振舞い、見せかけの人生を生きます。
もっとも当人に、見せかけの人生を生きている意識は無いに等しい位に薄い為、
心に、確かな【自分】という意識、が育っているのか、いないのか、という事を自覚する事は易しく無いのです。
【自分】が育たず、偽りの自己を【自分】の代わりにしてしまうのは、
その人は、生まれた時からずっと、心に【自分】を持つ事を禁じられて生きて来たからです。
おそらくその人の親も心に【自分】が育っていない人です。
いくら偽りの自己を形成しても、自分として人生を生きられない事は、とてつもなく生きづらいのです。
親は、自分の抱える生きづらさを誤魔化す為に子供を利用します。
子供を一人の人間として尊重する事は無く、親の所有物として、
親の生きづらさを誤魔化す道具にします。
親が所有する道具なのですから、子供は自分であってはならないのです。
だから親は、子供が心に【自分】を育てる事を許しません。
道具を思い通りに使いたいから、子供の心にズカズカと入り込み、そして居座ります。
生まれた時から、心に親が入り込み、居座っていたのですから、
子供は、その状態を不思議には思いません。
親が持ち込んだ信念めいたものが、その人の信念です。
親が持ち込んだ価値観の様なものが、その人の価値観なのです。
めいたもの、様なもの、と表現するのは、親もまた、偽りの自己を本当の自分と思い込んでいて、
信念は信念と呼べるものでは無く、価値観は幼い頃に、その親の親が持ち込んだもの、だからです。
偽りの自分として生きる人生は、常に心が晴れません。
心が晴れないのが常態なので、偽りの自分で生きている自覚はありませんが、ただ苦しいのです。
ただ生きるだけ、ただ此処に居るだけで、苦しかったり、焦りを覚えたり、心が重々しかったり、といった感覚があるならば、
自分軸で生きる、と決意するよりも、
前向きに生きる、と決めるよりも、
【自分】を育てる事が先決だと思うのです。
【自分】を育てるには、賢い自分も、愚かな自分も、強い自分も、弱い自分も、イケてる自分も、ダサい自分も、全部まとめてそっくり受け容れる事が必要です。
自分を受け容れる程に、【自分】は育ち、やがて信念が生まれ、価値観が根付きます。
苦しみは溶け、焦りも消えて、心は晴れやかになって行きます。
人生は、心に居座っていた他者のものでは無くなります。
そして人生を取り戻したなら、
自分軸で生きればよい、と、
そう思うのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム