向けられた好意や厚意に敵意を返す人
幼少期に徹底的に、自分の価値、を打ち砕かれた人の思考と行動のパターンは、概ね二手に分かれます。
そしてこの二つのパターンを行ったり来たりする、という不安定な精神状態が常態化します。
自分には価値が無い、と感じているから、相対する他者に迎合するパターンと、
自分には価値が無い、と感じているからこそ、その無価値感を覆い隠す為に、相手に対して、こと更に高圧的、好戦的、支配的な態度に出るパターンがあります。
根底にあるのは、自分には価値が無い、という思い込みです。
根底にあるものは一つでも、現れ方は正反対に近い二つのパターンが表出し、その間を行き来します。
自分の価値を打ち砕いた幼少期の親子関係に於ける、子供の立場、をそのまま持ち続けている状態が、迎合パターンであり、
親の立ち場を、ある意味模倣しているのが高圧的、好戦的、支配的なパターンと言えると思います。
相対する相手が自分よりも弱いと感じたら支配的になり、
相手が自分よりも強いと思ったら迎合する、という事です。
器用に使い分けているのでは無く、不器用に振り回されているのです。
支配する側に回ったかと思えば、違う場面では迎合するのですから、
周りの他人が受け取るその人の印象は、極めて不安定な人に映ります。
その特性に加えて、その人は、好意や厚意と敵意、優しさと弱さ、賢さとズルさの区別がつきません。
どうして区別がつかないのか、というと、その人が育った親子関係に於いては、
親は、親自身が重大な生きづらさを抱えており、苦しみを常に心に秘めています。
あまりにも苦しくて、苛立ち、怒っています。
その苛立ちや怒りは、自分より確実に弱い我が子に向けられます。
先に述べた様に、自分よりも弱い者には支配的になるパターンです。
支配的になり、我が子に苛立ちと怒りをぶつけます。
弱い子供は、強い親から苛立ちや怒りを一方的にぶつけられ、打ちのめされて、傷だらけになります。
苛立ちや怒りは、直接的にぶつけられるばかりではありません。
時に言葉や暴力では無く、態度や表情を使って無言の圧を子供に押し付けます。
言葉で、暴力で、態度で、表情で、親は自らが抱える生きづらさから生まれる苛立ちと怒りを子供にぶつけます。
それだけで、子供の心はズタズタになり、自分の価値など粉々に砕かれます。
更には、子供の心をズタズタにしながら、親はそれを、
お前の為を思って、と言います。
敵意を秘めて、好意や厚意だと言い張ります。
その子が親に迎合した時だけは、親はそれを、優しい子、と褒めます。
その子を都合良く利用しながら、そのズルさを賢さだと誇ります。
怒りをぶつけて、子供の心をズタズタにする時点で惨たらしい事ですが、
それを正当化する事は、惨たらしさに輪を掛けます。
親が言い張る事で、子供は、
好意や厚意と敵意、優しさと弱さ、賢さとズルさ、が分からなくなってしまいます。
やがて幼稚園に入園しても、学校に通っても、社会に出ても、
その人は、好意や厚意を向ける人に敵意を返します。
優しい人を弱い人だと思い支配的、高圧的に接します。
その人が賢い人だと感じる他者はズルい人です。
述べた様に、放っておいても、支配的なパターンと迎合するパターンを行き来して不安定なのに、
其処に持って来て、好意や厚意と敵意、優しさと弱さ、賢さとズルさが分からないのですから、
生きづらくならない方が不思議なくらいです。
人生を歩むうちには、好意や厚意を向けてくれる他者と出会います。
しかし、その人は、そんな人に敵意を向けてしまいます。
育った親子関係には好意や厚意は無かったから、そんな得体の知れないものには、敵意を向けます。
生きていれば、優しい人と向き合う場面もあります。
しかし、その人は、そんな人を弱い人だと思い、支配しようとします。
育った環境には、優しさは無かったから、弱そうな人だと思い、組み伏してしまおうとするのです。
そうやって、好意や厚意を向ける優しい人を遠ざけます。
人生には、何らかの魂胆を隠し持ったズルい人が寄って来る事があります。
その人は、ズルい人を、賢い人だと感じます。
ズルい人は、その人を利用し、いい様に使いますが、
生まれた時から、利用され、いい様に使われて生きて来たから、違和感を持ちません。
むしろ、懐かしい感覚すら覚えます。
だから、ズルい人を、賢い人だと思い招き入れます。
人生という長い道のりの間には、
思うより沢山の優しい人と巡り合います。
「いや、私の人生には優しい人など現れなかった」と思う人が居るとしたら、
それは気がついていないのです。
優しさに触れた事が無いから、優しさを向ける人に、敵意を向けて生きて来たのです。
人間関係がいつも似た様な顛末を辿り、
悲しい思い、寂しい思い、腹が立つ思いばかりを味わっているならば、
人の好意や厚意とはどういうものか、
優しさとは、ズルさとは、どういうものなのか、
其処に視点を移してみることは、決して無駄では無い、と思っています。
それを糸口に、
紐解く事が、
優しい人と繋がり、
ズルい人に取り込まれない、
あたたかな人間関係の入り口に、
誘う事すらあるのです。
人生には、
思うより沢山の、
あたたかな出会いがあります。
今は見えていないだけなのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム