自分を責める人、他人を責める人
自分を責める人もいれば、他人を責める人もいます。
自分を責める事が固定化されている人は、周囲の他人から見ても、
たとえば、自信無さ気に見えたり、引っ込み思案な人に見えたり、弱気な印象を与えがち、です。
少なくとも、人付き合いが得意な人、という印象を持たれる事は無い様に思います。
対して他人を責める事が、生きる上での基本姿勢になっている人もいます。
そういった人は、好戦的であり、強気な印象を他者に与える事が少なく無いでしょう。
現れ方は、両極端とも言える程に違っていますが、
どちらの場合も原因は、その人が抱える、無価値感、です。
どちらの場合も、自分には価値が無い、という強烈な思い込みに苛まれています。
自分を責める方向を向いている人は、他者から見ても、弱い、印象を与えるので、
学校や職場などで、いじめに合う事も少なく無いでしょうし、
自分を責める事が高じると、場合によっては、自傷行為、や、
更には生命に関わる事態に推移する事さえありますから、
深刻な心理状態と言えます。
他人を責める方向を向く人は、他者、特に深い関わり合いが無い段階の他者からは、強気な人、という印象を持たれる事が多く、
深刻な無価値感に苛まれている、とは思えない場合が常です。
しかし、他者を責める人は、自分には価値が無い、という思いを、
もはや自分では受け止めきれない程までに抱え込んだ挙げ句、
その、やりきれない思い、を他者にぶつけているのです。
つまり、自分を責めるのが辛いので、代替の手段として、いつも他人を責めているのです。
自分を責める人は、生命に関わる事態に陥る手前に在るのですから、状況は深刻ではありますが、
それでも、自分が抱える無価値感を自分で受け止めているので、
その生きづらさを手放そうという心境に至り易い、とも言えます。
つまり、抱える生きづらさを認め、生きづらさを手放す方向に向き直ることが出来易くもあるのです。
ところが、他人を責める方向を向く事が固定化されている人は、自分を責める代わりに他人を責めているのですから、
悪いのは他人であり、自分に非は無い、という構えで生きています。
すると、自分が無価値感に苛まれている、という事にも、
他人が気がつかないばかりでは無く、自分自身が気がつかないのです。
自分を責める事が辛すぎて、もはや少しも受け止める事が出来ない状態に陥って、
其処から目を逸らす事が、他人を責める、という姿勢になっているのですから、
他人ばかりか、自分をも欺いている状態です。
他人を責める人は、自分に非は無く、責められるべきは他人、という世界線に生きていますから、
自らの生命に関わる事態に陥る事はありませんが、
自らの生きづらさを認める事も、その生きづらさを手放す事もありません。
自分を責めることと、他人を責めることが、ひとりの人の中で共存している場合も多くあります。
自分には価値が無い、という感覚を辛くとも受け止めている間は、
その場面その場面で、自分を責めたり、他人を責めたり、という不安定な心理状態にあります。
それが、いよいよ、湧き上がる無価値感を少しも受け止められない状態に陥ると、
自分を責め苛む代わりに、他人を責める心理に固定化され、
他人を責める人、が出来上がります。
学校や職場で、いじめる人、
レストランやコンビニで怒鳴る人、
SNSで誹謗中傷する人、
煽り運転をする人、
クレーマー、
全部、他者を責める事で自分の抱える無価値感から目を逸らす行為、です。
だから、いじめても、いじめた意識が薄いのです。
怒鳴っても、相手が悪い、と思っています。
誹謗中傷、煽り運転、過度なクレーム、
自覚は薄く、正義は自分にあると思い込みます。
最たるものは、子供を利用して自分の無価値感から目を逸らす親、です。
その親は、深刻な無価値感に苛まれながら生き、そして親になりました。
自分を責めたり、他人を責めたり、不安定な心理状態で生きて来ました。
そして親になった自分は、絶対的に強い立ち場にある事に気がつきました。
幼い我が子は、自分が何をしても無抵抗、絶対服従です。
その親は、自分に非は無く愛情深い親であり、無価値で悪いのは、この子、という立ち場で生きる事にします。
その立ち場で生きると、自分を責める代わりに他者を責める事で、抱える無価値感から目を逸らす生き方は、どんどん固定化され、
引き返す事が叶わない領域に至ります。
子供が生きづらさに気がついても、
親は子供を利用して生きた、という事に気がつくことが、極めて少ない理由は其処にあります。
他者を責めて自分の抱える無価値感から目を逸らす事が固定化、常態化しているのです。
もしも、親から責められ続けた果てに、
抱える生きづらさに気がついたなら、
今は、親の事は考えず、
自分が生きづらさを手放す事に集中して欲しいのです。
親は、その人が犠牲にならなければ生きられなかったのです。
その人は、幼い自分の身も心も投げ打って、
親を守ったのです。
言わば、その人は最高の親孝行を、
人生の最初に既に済ませています。
生きづらさに気がついて、
生きづらさを手放す決意を固めたら、
自分を一番に考えて欲しいのです。
自分として、
自分の人生を、
生きるときが来ました。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム