絶望、を子に背負わせる親
常にマウントを取っていないと居られない人、って結構居ないでしょうか。
おそらく本人は気がついていないと思いますが、周りから煙たがられるタイプのNo.1だと思います。
人の話しを奪ってまで自分の話しばかりをするし、アドバイスを求めてもいないのに、上から指導するかの様に話す訳です。
自慢しますし、話しをモリモリに盛ります。
人を小馬鹿にしますし、揚げ足を取ります。
煙たく無い訳がありません。
声は大きく、態度も大きく、威勢が良かったりもします。
一見すると豪放磊落な人や、強い人に見えたりもします。
しかし、マウントを取る事が常態化している人は、心に重大な、無価値の思い込み、を抱えています。
自分は無価値だ、という思いに苛まれています。
その、無価値な自分、を覆い隠す為に、外に向かって、こうありたい自分、をアピールする事が生きる方法になってしまっています。
本来なら、自分は自分、他人は他人、と感情を切り分けて、
自分の感情は自分の中で処理して然るべきなのですが、
マウントを取る人は、その自己完結が出来ず、
他者を使って自分の満足を得る方法を取ることが、常態化しています。
本当は、無価値感に苛まれているのに、その事実に向き合うことが出来ないのです。
向き合うことが出来ないから、自分の中の無価値感を無かったこと、にする為に、他者を利用します。
他者を利用する、ということは、他者はその人にとって、自分の感情を安定させる為の道具であり、
他者を一人の人として尊重する、という対人関係の、基本の、き、が出来ていないということです。
対人関係に於ける基本が出来ていないのですから、周囲から煙たがれるのは必然です。
本来、自己完結すべき、心、の問題を、他者に解決して貰うのは、
極めて受動的な心の構え、です。
その人がどんなに声が大きく、態度も大きく、一見、豪快に見えたとしても、本質は、とても依存的な生き方をしている人、なのです。
他者が居ないと自分が成り立たないのです。
その最たるものが、子供を虐待する親、です。
殴ったり蹴ったりという肉体的な虐待に及んでいなくても、
子供を一人の人として尊重せず、子供の心を使って、自分の心を安定させる、心理的虐待をする親のことを言っています。
いつもマウントを取る人が、自分では気がつかない様に、
心理的虐待をする親は、子供を利用しているとも、傷つけているとも、ましてや自分が子供にもたれかかって、どっぷり依存している、などとは夢々思いません。
子供を利用して自分の無価値感から目を逸らすのは、最も簡単な方法です。
外の他者を利用して自分の無価値感から目を逸らそうとすれば、マウントを取ることが出来る他者を探さなくてはなりませんし、
そんな相手が都合よく見つかるとは限りませんが、
我が子なら、自分が親であり、その子が自分の子であれば、探す必要も無く、
しかも親子という、圧倒的に親が優位なパワーバランスの中では、何の障壁も無く親は子供を利用する事、が出来ます。
傍目には、子供を利用しても、躾けとか教育とかといったものに見えてしまう場合も多いのです。
何より、その親自体が、子供を利用している意識が薄く、
自分は子供の為を思って、躾けている、教育している、とはき違えている場合が殆どです。
子供の頃、親から尊重された事が無く、
生きづらさを抱えてしまった人にとって、親になる、という事は、自分を見つめ直すまたと無い機会です。
生きづらいまま親になる事、は、とても苦しい事です。
子育ては、待ったなしであり、逃げ場もありません。
生きづらさを引きずったまま親になった人は、嫌でも自分自身の内面と向き合う事を余儀なくされます。
そこで進む道は二手に分かれます。
子供を一人の人として尊重し、子供に教えられ、子供と共に成長するか、
子供を自分の生きづらさから目を逸らす道具として利用するか、
という二択を迫られます。
子供を尊重する道を選べば、痛みを伴います。
自分の心の幼さに気づかされ、その気づきは、痛みを伴いますが、
我が子と一緒に自分も成長する手応えに、大きな喜びを感じる事が出来ます。
子供を利用する道を選ぶ事は最も安易な選択と言えます。
痛みを感じるどころか、自分の内なる無価値感をそっくり子供に背負わせる事が出来ます。
自分の認め難い心の内を、子供に投影して、
お前は賢く無い、
お前は何も出来ない、
お前は優しく無い、
と責め立てます。
本当は自分を、賢く無い、と感じています。
本当は自分を、何も出来ないし、優しく無い、無価値な存在だと感じています。
つまり、自分に絶望しています。
その絶望と対峙したく無いから、全部子供に背負わせ、子供を責め苛みます。
絶望を子供に背負わせ身軽になる事を覚え、痛みを感じるどころか、歪んだ喜びすら得る事が出来る事を知った親は、軌道修正が難しくなります。
生きづらさを抱えて親になった時、
自分の中の絶望と対峙するのが怖いのは間違いありませんが、
対峙する選択をして後悔をする人を、私は知りません。
そして、痛みを回避する選択をして、子供に絶望を押し着せた人で、晴れやかになった人を知りません。
人生はその人のものであり、
どの様な選択をするのも、その人の自由です。
人生には幾つもの岐路がありますが、
親になる、その時は、
これまで、無価値感に苛まれて生きた人が、
自分の人生を歩むチャンスである事は間違い無い、と思っています。
親がしっかりと自分の人生を歩む人であれば、
子も、自分の人生に胸を張って踏み出します。
子の心は親の心に繋がっているのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム