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生きづらさを手放す時、大切なこと

親から充分に受け容れられる幼少期を過ごし、健康的な心を持つに至った人が、困難にぶつかり、心が折れてしまいそうな局面を打破する為の取り組みと、

受け容れられるどころか、存在や感情を否定され、親の感情や要求を優先する事を強要される幼少期を過ごし、生きづらさを抱えてしまった人が、
その生きづらさを手放す際の取り組みは、

全く、別のもの、です。

常々、その人の心の状態によっては、心に関する正しい情報とされているものが、毒になったり、薬になったりする、とお話ししています。

健康的な心の持ち主が困難を打破する、或いは、更なる精神面の成長を求める際になすべき事と、

生きづらさを抱える人が生きづらさを手放す時になすべき事は、

明らかに異なっていて、それを混同してしまうと、薬が毒に変わります。

悩める人や生きづらい人が、それを混同するのは、仕方が無いにしても、
生きづらい人をサポートする情報を発信する方の中にも、そこの理解が欠けている場合がとても多い様に感じています。

原因では無く、目的を見よ、

自分軸で生きよ、

今を生きよ、

過去の出来事に目を向けるのは、自ら苦しみを蒸し返す事だ、


よく耳にするこれらの事は、健康的な心を持つ事が出来た人が、悩みに直面した時、もしくは、更なる精神的成長を模索している場合には、

全くもってその通りだと、私も思います。

しかし、生きづらさを抱えて生きた人が、その生きづらさを手放そうとする場合、

目的を見る事はおろか、目的を設定する事すら出来ないから、苦しんでいるのです。

自分軸で生きようにも、自分が感じられないから、苦しいのです。

今を生きられない事が苦しみなのです。


生きづらい人が、目的を持つ事が出来ないのは、人生が他人事に思えているからです。

健康的な心を持つ人は、当然自分の人生は自分のもの、と感じているから、目的も定まります。

生きづらい人が、自分を感じられないのは心の中に、確かな【自分】という意識、が育っていないからです。

健康的な心を持つ人は、心の中に【自分】がしっかりと育っています。

生きづらい人が、今を生きられないのは、自分の人生が他人事に感じられ、これが【自分】だ、という確かな感覚が無いままに生きていて、
言わば、今を生きようにも、今を感じる主体が不在で、生きる実感が極めて薄いから、です。 

健康的な心を持つに至った人は、親から肯定的に扱われる幼少期を過ごしました。
存在や感情を充分に受け容れられる事で、自分には価値が有る、という安心感が生まれ、
安心感に包まれる事で、心に【自分】が育ちます。

生きづらさを抱える人は、親から否定され、拒絶され、利用される幼少期を過ごしました。

存在や感情を受け容れられるどころか、親を全面的に、無条件に受け容れざるを得ない立ち場に立たされました。

自分を殺して、親を受け容れるばかりですから、自分には価値が無い、と幼いその人は思い込んでしまいます。

安心感などある筈も無く、無価値感に苛まれます。

安心感の無いところに、確かな【自分】という意識は育ちません。


端的に言うと、健康的な心と生きづらい心を分けるのは、
肯定的な幼少期を過ごし、心に【自分】が育っているか、
否定的な幼少期を過ごし、【自分】が育っていないか、だと考えます。

自分の人生を自由に生きる、ということは、人生に起きる事すべての責任を負う、ということです。

責任を負う、ということは、人生は自分のものだ、という意識が必要ですし、
それ以前に、自分は自分である、という感覚が必要です。
しかし、生きづらい人にとっては、人生は他人事に思え、【自分】という感覚が育っていないのです。

人生の責任はすべて自分にありますが、唯一の例外が幼少期です。

幼少期に起きる出来事の責任は幼い子供にはありません。

【自分】が育っているか、いないかは、親子関係という環境要因によります。

その環境を作ったのは、幼い子供では無く、その子に責任はありません。

しかし、生きづらい人は、否定され、拒絶され、利用され、責められる幼少期を過ごし、

自分には価値など無く、責任はすべて自分に有る、悪いのは自分だ、と固く思い込んでいます。

まったくの誤解なのですが、固く固く思い込んでいます。

その誤解を解く為、思い込みを解く為に、生きづらさを手放す時に限っては、過去を辿り、腑に落とす必要があるのです。

健康的な心を持つ人、心に【自分】が育っている人ならば、過去に囚われる事無く、今を生きる事が人生を豊かにする事だと思いますが、

生きづらい人は先ず、【自分】を育てる事が先決であり、

その為に過去を辿り、
否定され、拒否され、責められ、悪いのは自分だ、と思い込んだけれど、
本当は自分には責任は無い、ということを腑に落とします。

腑に落とすことは、つまり、心にべったりと貼り付いた自分には価値が無い、といういわれのない思い込みを剥がすという事です。

無価値の思い込みが剥がれたなら、剥がれた分だけ安心感が生まれます。

安心感を養分にして、心に【自分】が育ちます。


目的を見よ、自分軸で生きよ、今を生きよ、
それらは、人生を歩む事の助けになる大切な考えだと思っています。 

しかし、生きづらさの最中に在る人は、それらの言葉を実践しようとする程に、苦しみは深化します。

正しい言葉、教え、考え方が、こと生きづらさを手放す局面では、毒になる事があるのです。

先だってたまたま、ユーチューブのお薦め動画の中に、「過去に囚われず、今を生きて下さい。」と発信されている心理学系ユーチューバーの方のお話しを耳にし、

生きづらさを手放す局面は、特別、である事を今一度お伝えしようと思った次第です。

生きづらさを手放す事は、

即ち、自分を育てる事、

なのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム
















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