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他人を貶めることが喜びになっている人

自分が自分を無価値だと感じていると、その矛先は往々にして他者への攻撃性として現れます。

抱える無価値感が深刻である程に、攻撃性は激しさを増します。

その意味では、生きる姿勢が常に好戦的な人は、自分自身を直視出来ない程に、自分には価値が無い、と思い込んでいる、と言えます。

私達にはもともと、他者よりも優れていたい、自分の優位性を誇示したい、という欲求はあります。

それは、生き物が種を保存する上で必要な事ですので、有って当然の欲求です。

鳥が、自分はこんなにも綺麗で大きな翼を持っている、とアピールする求愛行動の末、自分の遺伝子を残します。

メスのライオンが健康的で強いオスに惹かれ、子孫を残します。

魚も爬虫類も、昆虫も、自分が優れている事を誇示する事で、自分の遺伝子を残す仕組みになっています。

ヒトも他の生き物と同じで、他者よりも優れた存在である事を誇りたい気持ちを、もともと持っています。

よちよち歩きの幼い子供ですら、周りの大人が手を叩いて「あんよが上手」と、もてはやしたら満面の笑みで応えます。

自分が上手に出来ること、優れていることが、誇らしいのです。

理屈では無く、自分の優位性を誇る気持ちは、生き物には最初から備わっています。

自分の存在を優れた方向に押し上げたい欲求が、生き物には備わっています。

ところが、この世に生きとし生けるものの中で唯一、人間は、自分を優れた方向に押し上げるのでは無く、

他者を貶める事で、相対的に自分が優位に立つ、という手法を取る事が少なくありません。

獣が大地を駆ける能力に長けている様に、魚が泳ぐ能力が優れている様に、鳥が空を翔ぶ様に、
人間は思考する能力が他の生物に比して、飛び抜けて進化した生き物です。

その進化して複雑化した思考がそうさせるのだと思うのですが、

あらゆる生き物の中に在って、唯一人間は、他者を貶めます。

自分はこんなに優れている、と証明するのでは無く、
お前はこんなに劣っている、と他者に対して、負の証明、を突きつける事に持てる力の殆ど全て、を注ぎ込む場合があります。

それが、他者に対する攻撃性として現れます。

人は、嬉しい、楽しい、心地よい、といったポジティブな感情と同じ数の、悲しい、寂しい、不快、といったネガティブ感情を産み出します。

その星の数程もあるネガティブ感情の中で最も、認めたく無い感情、が、無価値感、だと言えます。

悲しい、というネガティブに分類される感情は、
【自分】が悲しい、のです。
寂しい、という感情は、
【自分】が在って、その【自分】が寂しいのですが、
無価値感とは自分には価値が無いと決めつける感情ですから、直接的に【自分】という存在を脅かす感情です。

だから人は、心に湧き上がる、無価値感、を認めたくありません。

述べた様に、人はポジティブ感情と同じだけのネガティブ感情を持っています。

時に誰しも、自分を無価値に感じてしまう瞬間はあるでしょう。

しかし、それが常態化してしまうと、瞬間的に頭をもたげる感情ではもはや無く、
信念にも似た固い思い込みになってしまいます。

最も認めたく無い感情である、無価値感が固い思い込みとなって、心の真ん中に張り付いています。

認めたく無い、触れたく無い、見たく無い感情が心の真ん中に張り付いているのですから、

その人は、自分の心から逃げる様になってしまいます。
自分の心の有り様を知る事が怖いのです。

すると、他者を貶める在り方が、その人の生き方になってしまいます。

常に、他者の落ち度を探し、いつも好戦的な態度になってしまいます。

失敗しても、それを認める事が出来ません。

少しも自分の心に目を落とす事が出来ない人になってしまいます。

赤ん坊がやっと自分の脚で立ち上がり、上手に歩けることに喜びを感じ、もう一歩歩きたい、もっと上手に歩きたい、と自分を伸ばす方向に喜びを感じる在り方が自然な喜びの感じ方です。

しかし、自分に価値など無い、と固く思い込んでしまった人は、自分に絶望しています。

自分に絶望した人は、自分には可能性が無いと決め込んでいます。

自分を伸ばす方向へは進めず、喜びを見出す道は閉ざされます。

だから、他者を貶めます。
他者を貶めることに、喜びを見出します。


世の中には、他者を貶める事だけが生きる喜びである人が確実に存在します。

その人は、自分の中で喜びを作り出すことが出来なくなっています。

他者を傷つけ、他者が苦しむ様を見ることだけが自分が抱える無価値な思い込みから目を逸らす術なのです。


子育てに悩み、自分は世に言う、毒親、ではないか、と思い始め、カウンセリングを受けるお母さんは少なくありません。

しかし、自分は毒親ではないだろうか、という視点を持った時点で、そのお母さんは毒親ではありません。

自分に絶望し、絶望しているからこそ自分の心に触れることを拒み、他者を貶めることに喜びすら感じる人が、毒親、なのです。


他者を貶め、その苦しむ様が自分の喜びである、という段階まで膨れ上がった、無価値の思い込み、は、末期的と言えます。

きっとその人が、その状態に陥ったのには、壮絶な背景があると思います。

その人の、自分に絶望してしまう程の背景、を思うと胸が痛みます。


しかし、その人が絶望の淵から立ち上がるには、本人の決断が必要です。

他者が働きかけて、どうにかなる事ではありません。

他者を貶めて喜びを得る段階に至っている人は、決断の前に、自分の心を直視する事が出来ません。

つまり、その人は、生きづらさを手放すタイミングでは無い、ということです。

人の生き方は自由であり、其処に善悪、正誤、優劣はありません。

生涯、他者を貶める事に喜びを見出す人は、幾らでも居ます。

しかし、もし、他者を貶めるよりも、自分を伸ばす事に喜びを求めたい、と思う様になったなら、

その時が、その人の、

決断のタイミングなのだと思います。

豊かに生きる時が来た、

ということなのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム





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