その親は、愛し方、を知らない
幼い頃に、親から充分な愛情を注がれた人は、精神的な親離れは総じて早い、と言えます。
充分な愛情を注がれる、とは、感情を肯定的に受け容れられる事、存在を一人の人として尊重される事、です。
何かをしたから受け容れられるのでは無く、ただそこに居るだけで、ありのままの自分を受け容れられる、ということです。
その様な親子関係の中で育った人は、自分には価値が有る、という安心感を得ます。
安心感は、その人の心の核とも言うべき、確かな【自分】という意識、の養分です。
養分が有るから、心の中の【自分】は芽吹き、育ちます。
子供に充分な愛情を注ぐ事が出来る親は、自分も幼い頃に親から充分な愛情を注がれて育った人です。
体験的に子供の、愛し方、が解っています。
幼い日、
親から褒められて嬉しかった、
頭を撫でられて嬉しかった、
話しを聞いてもらえて嬉しかった、
抱きしめられて嬉しかった、
全部、体験しています。
そんな優しい体験が、自分の心を育てた事を、無意識の領域で知っています。
子育てに正解は無く、親は幾らも失敗します。
しかし根本の、愛し方、を無意識の領域で知っているから、子供は健やかに育ちます。
健やかに育った子供は、心の核である【自分】がすくすくと育っています。
心に核が有る子供は、【自分】を頼りに立つ事、に喜びを感じ、自分の人生を歩む事に躊躇は極めて少く、
結果、親離れはスムーズであり、総じて早いのです。
幼い頃に、充分な愛情を注がれなかった人が、親になると、
先に述べた、優しい体験、がありません。
つまり心に、確かな【自分】という意識、が育っていない人が、親になった時、
自分の心が育った体験が無いので、子供の心に関心も興味もありません。
子供の心を育てる、という概念が欠けています。
子供を思いやる事が出来ません。
子供を人として尊重する事が出来ないので、子供に優しい気持ちを手渡す事はありません。
その親は、愛し方、を知りません。
愛し方がわからず、育児書を読むかも知れませんし、評判の良い幼稚園や小学校に子供を入れるかもしれませんが、
子供にとって充分な愛とはどんなものか、は育児書を読んでも分かりませんし、教育機関が与えてくれるものでもありません。
何故なら、愛し方、は技術でも知識でも無く、また誰かが教えられるものでも無いからです。
子供を一人の人として尊重する事も、
子供を思いやる事も、
その親は解っているつもりでいますが、
親自身が尊重されたり、思いやってもらえたという温かい経験が無い為、
尊重も、思いやりも、思考の領域での言葉の理解、に留まります。
その理解は、感情に紐付いておらず、子供を温かさで包む事が出来ません。
その親は、愛し方、を知りません。
愛し方を知らない親の下で育った人は、
一人の人間として尊重される、ということが無いままに育ちます。
一人の人間として尊重されないその人は、心に【自分】が育ちません。
一人の人間として認められないその人は、親の所有物として、親の人生に取り込まれます。
自分として、自分の人生を生きることが出来ません。
親は、子供を自分の人生に取り込んでいる、という自覚がありません。
愛情を知らないから自覚出来ません。
子供は、親の人生に取り込まれている事に気づきません。
愛を注がれた経験が無いから気がつき様が無い、のです。
親も子も、自覚が無いままに、取り込み、取り込まれ、
心理的、感情的には個として立つ事は決して無く、
混ざりあったまま、生きます。
親離れが遅い、というよりも、親子関係の歪みに気が付かない限り、
親離れは無い、と言えます。
子供が大人になって、物理的、経済的に独立しても、
結婚して家庭を持っても、社会的に成功して地位を築いても、
親に取り込まれて生きている、ということに気がつかない限りは、
心理的には親に取り込まれたままなのです。
親に取り込まれたまま、生涯を終える人は沢山います。
その生き方が良くない、ということでは有りません。
生き方に、善悪、正誤、優劣は無い、と考えます。
しかし、もしも今、苦しんでいて、その苦しみを手放したい、と思っているならば、
自分と向き合い、辿り紐解くタイミングなのかも知れません。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム