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答えは鏡に映る自分にある

生きづらい人は、自分の感情を無視するクセがついています。

幼い頃から、優先すべきは親の感情だったのです。

今にも涙が零れそうになっていても、親の顔色を伺って、親が明るく笑う事を求めている、と察知するや、とびきりの笑顔を振り撒く様な親子関係に晒されて生きたから、

自分の感情は、取るに足りないもの、だと感じていますし、もっと言うなら、邪魔なものとすら感じられていて、

だったら無視してしまおう、という感じ方が癖付いているのです。

昨日今日始まった事では無く、生まれてからずっとそうだったのですから、感情を無視する癖は、感情が湧き上がるや否や、ほぼオートマチックに発動します。

生きづらい人が育った機能不全家庭では、親の感情を優先しなければ生きる事が出来ないのです。

だから、刻々と湧き上がる自然な感情を全部無いものにして今日まで生き抜いたのです。

おそらく、感情の全てを無視して、親の感情を優先する環境に身を置いた事が無い人には、生き抜く、という表現は大袈裟に聞こえると思いますが、

虐待を生き抜いた被虐待児はサバイバーと表現されます。

生きづらい人は過酷な環境を生き抜いた、正にサバイバーです。


生き抜く代償は小さく無く、その人は、生きづらさ、を抱えて生きる事になりました。

自分の感情が分からなくなってしまいました。

生まれてからずっとそうだったので、自分が生きづらさを抱えている、という事にも、
感情が分からなくなっているという事にも、
自覚がありません。

ただ、どうしようも無く、苦しい、のです。

苦しくて、苦しくて、どうにもならない程、苦しくて、

その苦しさが、抱えている生きづらさに気づくきっかけになります。

苦しむ最中、見つけ辛い感情を見つけようと、自分の心を覗き込む人と、
自分の心を見る事を拒み、外に苦しみの原因を探す人に分かれます。

自分が抱える生きづらさに、気がつく人は、自分の心を覗き込む人です。

自分の心を見る事を拒む人は、怒りや悲しみや寂しさなどのネガティブ感情に支配された時、外に原因を探します。

あの人に腹が立つ、あの人のせいで私は悲しい、と心が揺れる度に、外に原因を探します。

しかし、外に見つかるのは、怒りを覚えるきっかけ、
悲しくなるきっかけ、であり、

怒りも、悲しみも、寂しさも、あらゆるネガティブ感情は自分の中から湧き出したもの、なのです。

原因を見る事を拒み、外のきっかけばかりを探している間は、自分と向き合う事も、生きづらさを手放す事も、叶いません。

自分は今何を感じているのか、どうしてそう感じているのか、を探る事無く、

これまで通りに、湧き上がった感情を無視して、外のあの人や、外のあの出来事のせいだと、

外へ外へとフォーカスを当て続けても、生きづらさを手放す糸口は見える事がありません。


苦しみから逃れたくて、軽やかになりたくて、カウセリングを受けるとします。

前提としてカウンセラーは、自分を映す鏡です。

カウセリングを受ける人が、見つめるべきは、鏡に映った、自分自身、です。

カウンセラーは、自分を映す鏡であり、心の外に有るあくまでも外的要因の一つです。

成すべき事は、自分と向き合う事、生きづらさを手放すこと、軽やかに人生を歩む事、です。

向き合うのはカウンセラーでは無く自分、手放すのも、人生を歩むのも自分です。

カウンセラーは、この角度ならご自分の姿が映りますか?こちらの角度ならどうですか?と鏡の角度を変え、

鏡の中の姿が、苦しむご本人に見える様にする役目です。

向き合うのも、手放すのも、歩むのも、今苦しむその人自身です。


外にフォーカスが向いてしまう人は、鏡の造作や鏡面の磨き具合等にばかり目が行って、肝心の鏡に映る自分の姿を見ようとしません。

自分と向き合いません。

鏡の造作の良し悪しにばかり気を取られます。

この人からは何も得られない、この人では役不足、

この人は私の鏡にはなれない。

本当にそうでしょうか。

この苦しむ人は、あいも変わらず、外に原因を求めていないでしょうか。

そのカウンセラーが鏡になれない、のでは無くて、

カウンセラーを鏡にして、自分の姿を見るのは自分自身です。

カウンセラーが鏡になる、というよりも、
自分自身がカウンセラーを鏡に、する、のです。


確かに、鏡になり得ないカウンセラーも居ると思います。

少なくとも、カウンセラー自身が自分のワークを終えていて、心に葛藤を抱えていない状態でなければ鏡にはなり得ません。

導くとか、救うという表現を使うカウンセラーは、自分が苦しむ人の外的要因の一つであって、
向き合い、手放し、新たに人生を歩み出すのは、今苦しんでいるその人だという事が解っているのかが、甚だ疑問ではあります。

その意味でカウンセラーを正しく選ぶ事は大切ですが、

幾人ものカウンセラーを渡り歩く人の中には、フォーカスが外へ外へと向かい、鏡の良し悪しを評論家の様にジャッジして歩く人が少なからず居る様に思います。

先に述べた様に、生きづらい人は、自分の感情を無視するクセがついています。

そのクセがついていると、自分と向き合おうとした時、鏡の中に映る自分にフォーカスする事を、どうしても忘れがちです。

誤解を恐れず極論するならば、一段高い所から見下ろして、自分が導く、自分が救う、などといった考えに凝り固まったカウンセラーでない限り、

苦しむその人が、鏡に映る自分から目を離さなければ、鏡の良し悪しは、外的要因の一つに過ぎない、と思っています。

大切なのは、あくまでも、フォーカスを鏡に映った自分に向ける事、です。

カウンセラーが自身を鏡たり得る様に保つ事は勿論大切ですが、最重要なのは、苦しむその人が、鏡の中の自分をしっかりと見据える意識を持つ事だと思うのです。

解り易い例として、カウセリングを挙げましたが、自分だけで、自分と向き合おうとする時も同じで、

自分と向き合っているつもりで、いつしか、外の人や、外の出来事ばかりに注意が向いてしまう事は実に多いのです。

外に注意が向く事は、全ては自分の心の中にあるのに、外に原因を探す事であり、

また、外に自分の苦しみを取り払う、何かしら決定的な特効薬や魔法の杖を、知らず知らずのうちに探しているのです。

生きづらさを手放したいと願い、

自分と向き合い始めたなら、

感情を無視するクセが、

自分にはある、ということを、

頭の隅に置いておく事は、

自分と向き合い、

生きづらさを手放す、

助けになる、と思っています。

生きづらさを手放す時、

自分と向き合う事が始まりで、

自分と向き合う事がすべてです。

向き合うのも、手放すのも、軽やかになるのも、良き鏡を探すのも、鏡の中の自分を見据えるのも、
自分、です。

何故ならすべては、
自分として自分の人生を生きる為、
なのですから。

望む人生は、

外に答えは無く、

誰かが与えてくれるのでも無く、

自分と向き合い、

自分で掴むもの、だと思うのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム






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